第39話 けぇ子という名前


 自らを題材とした劇を見るという、ある種の拷問をどうにか耐えきった善右衛門は、賑やかな神社から離れ、山の中を流れる小川の側の岩に腰を下ろし、ぐったりと項垂れながらその体とその精神を静かに休めていた。


 夏の日差しが降り注ぐ中、そよそよと流れる川の音と川の水に冷やされたそよ風はとても心地がよく……そうやって善右衛門が寝てしまいそうになっていると、屋台に並んでいた食い物を山程……両手いっぱいに買い込んで来たけぇ子がやって来て、善右衛門の近くにそっと腰を下ろし、そうして声をかけてくる。


「お心、少しは癒えましたか?」


 口数の多いけぇ子には珍しい、口数の少ない端的な物言いに、善右衛門はすっくと顔を上げて……なんとも言えない難しい顔をしてから言葉を返す。


「けぇ子、お前……。

 まさかずっと俺のことを案じていたのか?」


「……はい、あの時、善右衛門様は泣いていらっしゃったようですから」


「ああ、あれか。

 確かにあの時は、不覚にも情けない姿を見せてしまったが……なぁに、深刻に案じられる程の事では無い」


「そう、なのですか?

 人の身でありながら人を裁くというのは……善右衛門様にとって、とてもお辛いことだったのでは……?」


 真っ直ぐに善右衛門のことを見つめて、真摯にそう言ってくるけぇ子を見て、善右衛門は背筋を正し、しっかりと視線を返してから言葉を返す。


「……奉行として生きる中で確かに辛く思ったこともあった。思い悩んだこともあった。

 だがな、けぇ子。奉行という仕事はただ辛いだけでは無いんだ。

 言葉にも出来ぬような悲惨な事件が起きた時、人々は不安に苛まれて苦しむことになる。

 そんな時に俺が……奉行が動き始めたと聞けば、人々はいくらかの明るさを取り戻してくれる。

 犯人を特定し、捕縛し、沙汰を下し、刑が執行されたとなれば、それは尚の事だ。

 ……そうやって人々が元の生活を取り戻し、不安に苛まれること無く悪に怯えること無く、笑顔で日々を暮らしている様子を見るのは、奉行にとっての無上の喜びと言えるだろう。

 今のこの平和な……天下泰平の世こそが、奉行にとっての最上の報酬という訳だな。

 ……だからまぁ、俺は大丈夫だ」


 そう言って何処か遠く、空なのか山の中なのか、何処とも言えない場所をぼんやりと見つめる善右衛門。


 そんな善右衛門の顔をじぃっと見つめたけぇ子は、しばしの間何かを考えてからゆっくりと口を開く。


「人々が笑顔で暮らしている様子こそが無上の喜び……ですか。

 ……かつて私のご先祖様に『けぇ子』という名前をくれたお坊さんも、似たようなことを言っていたそうですし……もしかしたらそのお坊さんは善右衛門様のご先祖様なのかも知れませんねー。

 もしそうだったら私達は先祖代々の縁ということになりますねー」


 そう言って「うふふ」と楽しげに笑うけぇ子。


 そんなけぇ子の言葉を受けて、小さく驚いた善右衛門は、間抜けなようにも見える驚きの表情を浮かべながら言葉を返す。


「その名前、先祖代々のものだったのか?」


「はい、そうですよ。

 なんでもそのお坊さんが悪漢に襲われて命を落としかけていた時に、たまたま通りかかったご先祖様が妖術を使って助けた、というご縁からこの名前を付けて貰ったそうなんですよ。

 なんでもおなごの名前に『子』という字を使うのは、かしこきお方だけの習慣なのだそうで……?

 そんな名前をご先祖様に付けたお坊さんは、お腹をどんどこ叩きながら辺り一帯に響き渡る程の大きな高い声で笑って『狸がけぇ子と名乗るは全く愉快で、悪徳無法の限りである』とかなんとか……そんなことをおっしゃったと聞き及んでいます。

 以来、私達の一族は長女がその名を受け継ぐ形で、代々けぇ子と名乗るようになったと、そういう訳なんです」


「……待て待て、何なんだその坊主は。

 よりにもよって坊主が悪徳を、無法を喜んでどうすると言うのだ……!

 一体何処の寺の腐れ坊主がそんなことを……?」


「さぁー……?

 私達に伝わっているのはそのお名前くらいですので……。

 なんでも『吉法師』さんという名前のお坊さんだったそうですよ」


「……きっぽう?

 初めて聞く名というか……ずいぶんと変わった名前をした坊主だな。

 ……まぁ、そんな坊主の居る寺など疾うの昔に潰れてしまったのだろうな……。

 しかしそうか『子』という名にはそんな意味が……ふぅむ」


 そう言って善右衛門は深く考え込む。


 言われてみれば確かに『子』という名を持つおなごなど、けぇ子以外に見たことも聞いたことも無い。

 『子』という字にそういった意味が込められているのであれば、それも当然のことで納得できることではあるのだが……しかしならば何故、何故自分は『けぇ子』という名前を聞いて、全く何の疑いも無く、違和感もなく受け入れたのだろうか。


 人別改帳にも『けぇ子』としっかりと書いてしまっていて……自分は何故、何故『けぇこ』という名乗りを受けてそれを『けぇ子』という字として受け止めたのだろうか?


 そんなことを考え、善右衛門が頭を悩ませていると、けぇ子がすっくと立ち上がり、元気な声を上げる。


「さぁさぁ、善右衛門様。

 お心が癒えて、十分に休憩が取れたのであれば、早速神社の方に戻るとしましょう!

 祭りの本尊はまだまだこれから、食べ歩きもまだまだこれからです!」


 そんなことを言うけぇ子に、善右衛門は顔を顰めながら言葉を返す。


「……今ほど、その手に余る程の食い物を買って来たばかりではないか?

 だというのに食べ歩きをするとは一体……何……を……」


 と、そんな風に言葉の途中で、けぇ子の姿を見た善右衛門は、その言葉を濁らせ淀ませて……そうして言葉を失ってしまう。


 けぇ子の両手の中いっぱいにあったはずの食い物達が、綺麗さっぱりと消えてしまっていたのだ。


 けぇ子の顔をよく見てみれば、その口元に何かの食べ残しが張り付いており、それを見た善右衛門は、まさかあの量をこの短い時間で食べ尽くしたのかと戦慄する。


 戦慄し恐怖し、そうして何も言えなくなってしまった善右衛門は、食い物をたっぷりと食べて力に満ちたけぇ子にその手を握られてしまい、そうして神社に来た時のように、ぐいぐいと凄まじい力でもって引っ張られてしまうのだった。

 


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