第69話 うら
その赤鬼は善右衛門よりも大きく、遊教よりも大きく、二人が見上げてしまう程の巨躯を持っていた。
その腕と脚は驚かされる程に太く、胸板も腹周りも分厚く、目の前に立っているだけで威圧されてしまう程の力強さを有していた……のだが、その赤鬼はどういう訳だか号泣と言って良い程の涙を流していた。
何か悲しいことがあったというよりは、何かとても恐ろしいものを目にしてしまったといった様子で、異様な程に怯えながらはらはらと涙を流し続けるその赤鬼を見て、善右衛門と遊教が一体何事だと驚き、困惑してしまっていると、赤鬼がゆっくりと鋭い牙の生え揃う口を開く。
「ウラ……オイの名前はウラ。
い、言われた通り、神妙にするから殺さないでくれぇ……」
地の底からせり上がってくるかのような、低く太い声での赤鬼の一言に、錫杖を構えて今にも鬼に飛びかからんといった様子を見せていた遊教が「こいつは一体何を言っていやがるんだ!?」と訝しがっていると……大太刀の柄に手をやっていた善右衛門が、その構えを解いて居住まいを正して……軽い礼を交えながら言葉を返す。
「求めに応じての名乗りありがたく頂戴する。
このような簡素な格好をしているが、この俺が町奉行、暖才 善右衛門である。
そしてこの度の改め(取り調べ)は、お前を殺す為ではなくあくまで何者かに持ち去られた殺生石の在り処を探る為のものである。
うらと名乗る鬼よ、心当たりがあれば正直に答えるが良い。
殺生石を盗み出したか? 殺生石を何処かへやったか? あれは碌でもない妖怪の禄でもない力の込められた呪い石である、隠し持っていても不幸を招くだけだぞ」
あの鬼を前にしているというのに、至って平静にお役人的な態度を見せる善右衛門を見て、遊教は「こいつはこいつで一体何を言っていやがるんだ!?」と激しく困惑する。
あの鬼が、あの伝説に名を残す鬼が目の前にいるのだ、呑気に言葉など交わしている場合ではないだろう。
てっきり何かしらの妖怪変化の仕業だろうと思っていたら、まさかの本物の鬼が姿を見せるとは……今すぐ飛びかかって成敗してやらねば、この辺り一帯が鬼の手により滅んでしまいかねん!
と、そんなことを考えながら錫杖を片手で構え、もう片方の手でもって首から下げていた数珠玉を構える遊教に対し、善右衛門はそっと片手を上げて『ここは俺に任せろ』と態度でもって示してくる。
何処までも冷静で、何処までも平静で……ゆったりと構えて、うらと名乗った鬼の返事を静かに待っているらしい善右衛門に対し、遊教は何も言えなくなってしまい……慌ててその場から距離を取る。
そうして数珠玉を連ねていた紐を千切り、数珠玉を周囲の地面へと散りばめながら、口の中でもぐもぐと経を唱え始める。
善右衛門にもうらにも聞こえぬようにと、そうしながら法力を練っていく遊教。
するとそんな遊教の前に、状況を静かに見守っていた八房がちょこんと座って、
「ひゃわん!」
と、柔らかく一吠えし、余裕を見せているかのような態度で、その尻尾をゆらゆらと揺らし始める。
『まずは落ち着け』と、そう言っているかのような八房の態度に、遊教が「おいぬ様まで一体何を!?」と困惑していると、涙を流しながらきょろきょろと視線を泳がせていたうらが、ゆっくりとその大きな口を開く。
「あ、アレは食っちまったダァ。
腹が空き過ぎて食っちまったダァ。
こ、この辺りはもうきのこも木の実も残ってネェから……あの変な力を宿していた石を見たら、ついつい齧りたくなっちまって、そんでちょっとだけ食っちまったダァ」
相変わらず涙を流したままで、なんとも落ち着かない様子ではあるが、その目を見て態度を見て、どうやら嘘は言っていないようだと判断した善右衛門は、ゆっくりと頷いてから声を返す。
「……何もわざわざ石なんかを食わんでも、この山であれば獣肉なり鶏肉なり、食い物の宛はあるだろう?」
「さ、最近は野垂れ死ぬ獣が減ったから、そういうのはとんと口にしてネェんダァ」
「……ならばその太腕でもって狩りをするなりしたらどうなのだ? 石に齧りつくよりはその方が良いと思うが……」
「そ、そんなことしたら噂が立っちまう。
ここに鬼が居るって噂が立っちまう。
お、オッカァが言ってたんダァ、昔の鬼はやりすぎた、やりすぎて方々から恨み買っちまって……それで滅ぼされたんだから、大人しくしてなきゃだめなんだって。
ひ、人は恐ろしい、見つかっちまったら問答無用で殺されちまう、容赦ネェ、情けもネェ、赤子も残らず殺されちまう。
だから……だからオイらは、何百年も岩の隙間に埋もれながら見つからねぇようにしてきたんダァ」
そう言って涙を再度だばりと流し、ごくりと息を呑んだうらは、その表情を深く暗いものへと変えながら言葉を続ける。
「……だってのにオイは見つかっちまった。
冬を前にして十分な備えもできネェで、まともに飯も食えネェで、石なんかを齧ったばっかりに見つかっちまっタァ……。
オッカァが死んで、この岩村の最後の一人となっちまって、よその村から嫁も貰えんうちにオイは見つかっちまったんダァ……ほんに情けネェ、情けネェ……」
絶望の色を深くし、更にとうとうと涙を流しながらそう言ううらに対し、善右衛門は目を細め、なんとも言えない表情をしてから言葉を返す。
「……その言い方だと他にも鬼の村……岩村とやらがありそうな口ぶりだな?
そんなものが本当に存在しているのか……?」
「オイは見たこともネェけど、お、オッカァはそう言ってたダァ。
ここら辺にはあんまりネェけど、京の方に行けば、数百、数千の鬼が暮らす岩村があるって……。
いつかそこから嫁を貰ってやるから大人しくしておけって……そう言ってたダァ。
オッカァが死んじまって、その岩村からどうやって嫁を貰えば良いのか、もうオイには分かんネェけども……確かにそう言ってたダァ」
その言葉を受けて瞑目した善右衛門は「ああ……」と小さく呟いてから、遊教の方へと向き直り、しっかりと目を開いて、その視線でもって『そんなことがあり得るのか?』と遊教に問いかける。
すると何とも言えない……痛みを堪えるかのような表情をした遊教が、その首を左右に振っての否定の意を示してくる。
酒天童子などが居た大昔であればいざ知らず、様々な信心者達が集う京の都に、その近くの山に、鬼の村など存在出来るはずがない。
仮にあったとしても三日と経たずに発見されて、あっという間に綺麗に掃除されてしまうに違いない。
京に鬼の村など存在し得ないと、そのことをうらの母親は知っていたのかいなかったのか……いずれにせよなんとも残酷なことだと、善右衛門は大きなため息を吐き出すのだった。
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