第70話 鬼を前にして


 うらの母親は一体何を思って『いつか嫁を貰ってやる』などと口にしていたのだろうか。


 いつかそういう日が来ると本当に信じていたのか、それともそんなことは有り得ないのだと知りながらそれでもうらを慰める為に口にしていたのか……それともただ己の命が尽きるまでの時間稼ぎだったのか。


 うらの母親が亡くなってしまっている現状、確認のしようがないことだったが……いずれにせよ救われない話だなと、そんなことを胸中で呟く善右衛門。


 そうして善右衛門が沈痛な表情を浮かべていると……その隣で似たような、苦虫を噛んでいるかのような表情をしていた遊教が、意を決したかのように表情を引き締め、錫杖をゆっくりと構え始める。


 その錫杖の先から鋭い殺気が放たれ始めたのを見て、善右衛門がゆっくりと口を開く。


「……遊教、一体どういうつもりだ?」


 その問いに対して遊教は、わざわざ言ってやらないと分からないかと、そんなため息を吐き出してから言葉を返す。


「どうもこうも無いだろう。

 恐ろしい人間様としちゃぁ鬼を見つけた以上は見逃す訳にはいかねぇんだよ。

 満足に冬備えが出来てねぇってなら……ここですっぱりと命を断ってやるのも慈悲ってもんだ。

 ……それとだ、言っただろう? 鬼は繁殖力が凄まじいって。

 その凄まじい繁殖力は、鬼以外の腹でも鬼の子を産ませちまう程なんだ。

 かつての酒天童子が美女を攫っては囲ったのはそういう理由なんだよ。

 ……ここで見逃せば、酒天童子の再来なんてことにもなりかない……なぁに、苦しませずに一撃で済ませてやるさ」


 そんな遊教の言葉を受けてうらが「ひぃぃぃ」との悲鳴を上げながら怯む中、しばしの間考え込んだ善右衛門は……静かに遊教の前に立ち、錫杖の先端をその手で握り込む。


「おい、善右衛門……お前こそ一体どういうつもりだ?」


 放っていた殺気に少しの怒気を混ぜながらそう言う遊教に、善右衛門は諭すかのような口ぶりで言葉を返す。


「罪を犯していない者を、その可能性があるからと処断するなど、奉行として見過ごすことはできん。

 うらの言葉を信じるのであれば、この鬼は……岩陰に隠れながら静かに、山の恵みを口にしながら生きて来ただけの無害な鬼だ。

 ……処断する程の理由は無い」


「善右衛門! てめぇは寝惚けていやがるのか!!

 かつての鬼の所業については、てめぇも聞き知っているんだろう!!

 未だに語り草となっている、獣達が恐れおののく程の悪夢を、この太平の世に蘇らせるつもりか!!」


 両目を見開き、口の両端が裂ける程に大きく開口し、辺り一帯に響き渡る怒声を上げる遊教に、善右衛門はただただ静かな表情と、静かな声を返す。


「勿論そうならないように対策はすべきだろうが、だからといって今すぐにうらの命を断つというのは短絡に過ぎる。 

 ……かつての鬼共が悪逆非道の者であったからと言って、その末裔にまで責を負わせる必要は無いだろう。

 確か鬼祓い……鬼の邪気を断つにはいくつか方法があるんだったな?

 それらを使ってうらの行動範囲を制限し、定期的に面会に来てはよからぬ企みをしていないかの確認をしてやればそれで良い話だ。

 それでも、どうしてもうらの所業が気にかかると言うのならば、遊教、お前がうらを見張ってやれば良い。

 見張ってやって、その上でうらが死罪を受けるに相応のことをしたならば、その時はこの錫杖を振るうなり、俺の責を問うなり好きにすれば良い」


 そう言って錫杖から手を離し、うらの方へと振り向いた善右衛門は、恐怖のあまりに腰を抜かし、尻もちを突きながら涙をとうとうと流すうらへと声をかける。


「うらよ、いきなりやって来て行動範囲を制限するだの、見張りを付けるなどと言われて甚だ理不尽で納得のいかぬこととは思うが、これもこの辺りに住まう者達を安心させる為だと思って受け入れて欲しい。

 受け入れてくれるのであれば、その代わりにいくらかの食料を融通することも考慮しよう。

 この話を受け入れてくれた上で、大人しく……お前が先程のお前の言葉の通りに生きていくというのであれば、俺達はそれ以上の干渉はしないことを誓おう。

 どうだ、受け入れてくれるか?」


 そんな善右衛門の……静かで落ち着いた言葉を受けて、ぽかんと拍子抜けしたような表情を浮かべたうらは、その言葉の意味をよく考えてから飲み込んで、そうして何度も何度も激しく頷いて、受け入れるとの意を示す。


 するとその様子を見た遊教が、うらではなく善右衛門に向けて殺気混じりの声を放つ。


「……殺生石についてはどうするつもりだ!

 うら自身にそのつもりがなくとも、腹の中の殺生石が何かをやらかすかもしれねぇぞ!!」


「その時はその時で対処するしかあるまい。

 うらも自らの意思でもってあの石を食らったのだ……その責を負うことに否も無いだろう。

 もしあの石を吐き出すなり、腹から下すなり……うらが命を落とすなりした場合には、石を回収して厠神に委ねるが、それまでは様子を見たいと思っている」


「……善右衛門、お前の言うことも分からんでもない。

 このうらに罪があるかと言われれば確かに無いのだろうし、罪なき者を裁くなど奉行としては受け入れられないことなのだろう。

 しかしだな―――」


 と、遊教がそんな言葉を口にしたその時だった。


 善右衛門の足元で静かにことの成り行きを見守っていた八房が、


「ひゃわーん! わわんわん! ひゃわわわわん!」

 

 と、はふはふと激しく口を動かしながらの、大きな声を上げたのだった。

 

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