第9話 そして狐
翌日。
朝日が昇ると同時に目覚め、刀を軽く振って身体を慣らし、けぇ子の用意してくれた朝食を食べ終え、けぇ子の用意してくれた着流しに袖を通した善右衛門は、筆と墨竹筒、紙束を手に町へと繰り出していた。
宿場町の端から端、家々の中を一軒一軒丁寧に検め、それぞれがどんな家なのか、どれくらいの損壊状況なのかなどを詳細に紙束に書き記し……それが終わったなら、今度は町のあちらこちらで、道や井戸やらを掃除し、少しでもこの町での暮らしが快適になるようにと懸命に働いている狸達一人一人に話しかけ、その名前、家族構成といった情報を紙束に書き記していく。
町奉行の仕事は白洲の場で沙汰を下すことだけ……と思われがちだが、実際の所はそうでは無い。
担当する町の管理、防火防災といった重大な責務があるのに加え、善右衛門が特に重要視していた人別改帳の作成といった仕事もあるのだ。
どんな家があり、そこに誰が住んでいて、どんな家族構成で、どんな仕事をしていて、どんな宗門に属しているのか。
そういったことが事細かに記された人別改帳は、善右衛門の白洲の場における切り札でもあった。
町人一人一人のひととなりを把握し、交友関係を把握し、利害関係を把握し……いざ、白洲の場にその者が現れたならば、それらの情報を元に、その口から出る言葉が嘘か真か、家族、知人や利害のある者を庇う為のものでないかなどを判断し……そうやって沙汰を下す際の助けとしていたのだ。
所詮は善右衛門もただの人。
神仏ならぬ人の身で全ての沙汰を正しく下すことなど出来ないだろう。
相手の心の内を完璧に見通すことなど出来ないだろう。
だとしても、そうだとしても、出来うる限りの手を尽くし……少しでも性格な『正しい沙汰』を下したい。
そういった想いでもって善右衛門は、自らの手を使い足を使い、人別改帳を記すことを町奉行である自らに課していた。
……そこまでして善右衛門が下したこれまでの沙汰が、果たして正しいものだったのか否か。
その答えは善右衛門が閻魔の前に立ち、浄玻璃鏡を覗き込む時まで知ることは出来ないだろう。
(浄玻璃鏡……その者の人生の全てを写しだす鏡。
ああ全く、そんな便利な物がこの手にあればどんなに楽に沙汰を下せることか)
と、そんなことを内心で呟きながら人別改帳に文字を書き込んでいく善右衛門。
浄玻璃鏡を使い、浄玻璃鏡に頼り、何の苦労をすること無く人々に沙汰を下し、地獄の主を気取る閻魔大王。
善右衛門はそんな閻魔のことが嫌いで、そんな閻魔のことを是とする仏の教えが嫌いで、そうした考えから神仏を信じていなかったのだ。
しかし今の善右衛門は天罰をその目にしたことで、神仏の、閻魔の存在を信じざるを得なくなっており……そうして善右衛門は閻魔に対し、嫉妬に似たなんとも言えない複雑な感情を抱くようになっていた。
(閻魔め、亡者になった際には嫌味の十や二十……いや、百はぶつけてやらねば気が済まん。
……今からせいぜい覚悟しておくがいい)
更にそんなことまで内心で呟いて……そうこうしながら善右衛門は、半時程で人別改帳に自らの名と、けぇ子を含む三十四名の狸達の名を記し終える。
(まぁ……とはいえ、だ。
この町でこの人別改帳が役に立つことはまず無いだろうな。
狸達は誰も彼もがのんきな上、けぇ子の一族しか居ない現状で諍いが起きたり、犯罪が起きたりするなどまず考えられん)
真面目で善良で……どこか純真さすら感じさせてくれるけぇ子達。
そんなけぇ子達が一族同志でそういったことを起こすなどあり得ないことだ。
そうと分かっていながらも真面目に丁寧に、仔細な人別改帳を作り上げ、いざという時に備える辺りが善右衛門の善右衛門たる所以だった。
そうして出来上がった人別改帳を着流しの懐に差し込み、善右衛門が奉行屋敷に帰ろうとした―――その時だった、近くの家の影から何者かが飛び出してくる。
長くしっとりとした黒髪、切れ長の目、細面の女で……白い生地、炎のような柄染めの着物、頭から生えた灰色の毛の狐耳、着物からはみ出す灰毛の尻尾。
咄嗟に腰の刀へと手を伸ばした善右衛門は、警戒しながらも刀を抜くことなく目の前の狐……銀狐をよく観察し、そうしてから言葉を漏らす。
「化け狐か。
……あの洞窟を崩した狐達に絡んでの用件か?」
「流石のご慧眼でございます、暖才善右衛門様。
同族のしでかした罪を詫びる為、また狐の全てがああでは無いと一族の尊厳を守る為、どうかわたくし共の言を聞き届けて欲しいと願い、こうして参った次第でございます」
以前の狐とはまた違った態度で、しおらしく丁寧に腰を折り、頭を下げるその化け狐を見て善右衛門は、
「話は奉行屋敷で聞く」
と一言口にし、化け狐と共に奉行屋敷へと足を向けるのだった。
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