第8話 そして湯に浸かり
片や立派な漆塗りの木材で囲われた入り口。片や壁の途中をくり抜いただけと言わんばかりの粗雑な造りの入り口。
まず立派な方の入り口に入ってみると、簀の子が敷かれ、いくつかの竹籠が置かれた脱衣所があり、その奥にやたらと広く金と手間暇をかけただろう湯殿があり……粗雑な方の入り口に入ってみると、狭い上に露骨なまでに粗雑で簡易な造りとなっている湯殿がある。
そうした二つの湯殿をよぅく見て、比べた善右衛門は……狭い方の湯殿を選び、そちらの脱衣所で、浴衣の帯を解き始める。
善右衛門の後ろに控えながらそうした様子を黙って見ていたけぇ子は一体何故こちらの湯殿を選んだのか、何故あちらの湯殿を選ばなかったのだろうかという疑問を抱き……たまらずにその疑問を口にする。
「善右衛門様、善右衛門様。
どうしてあちらの立派な湯殿でなく、こちらの……その狭い湯殿をお選びに?」
「確かに向こうに比べれば狭いがな……それでも大人一人が足を投げ出しても余る程の広さがある。
逆に向こうは一人で入るには広過ぎて、落ち着いて湯を楽しめないだろうと思ってな」
「なるほど……。
でも、そうするとせっかくの立派な湯殿が勿体無いですねー」
「……勿体無いと思うならばけぇ子、向こうの湯殿はお前達の一族で使えば良い。
そう言えば先刻、毛並みの手入れがどうとかそんなことを言っていただろう?
温泉で手入れしたなら良い毛艶になるのではないか」
その言葉は善右衛門が何気なく、本当に何気なく言っただけの言葉だった。
誰も使わないのであれば使いたい者が使えば良い、その程度の言葉でしかなかった。
だが、けぇ子には、けぇ子達に気を配った、心優しい……善右衛門らしい言葉に聞こえたようで、その目をきらきらと輝かせ始める。
そうしてけぇ子は脱衣所にあったもう一つの竹籠の前に立ち、少しでも善右衛門の為になろうと善右衛門の背中を流そうと、自らの着物に手をかけ、それを脱ごうとし始める。
そんなけぇ子の動きを、気配を察知した善右衛門は、はっとなり咄嗟にそちらへと視線を、身体を向ける。
大勢が集う江戸の混浴湯屋ならまだしも、こんな二人きりの場所で女が裸になろうとするな!
と、そんな大声を善右衛門が上げようとした―――その時だった、着物に手をかけたけぇ子の足元からぼふんとの音と共に白い煙が巻き上がる。
けぇ子の全身を包み込むかのように巻き上がったその煙が晴れると、そこには狸の姿となって木の葉を手にするけぇ子が居り……手にした木の葉をそっと籠の中に置いたけぇ子は、口を大きく開け目を見開きながら自らの方を見ている善右衛門に気付いて、きょとんした表情になりながら、どうかしたのかと小首を傾げる。
途端に善右衛門は自分のしようとしていたことが、相手が狸だということを忘れてしまっていた自分のことが妙に馬鹿馬鹿しく思えてしまって、狸を相手に気を使ってどうするのかという気分になり……粗雑に乱暴に浴衣を脱ぎ、褌を脱ぎ、それらを竹籠に投げ入れ全裸となる。
そうして善右衛門はずかずかと湯殿へと向かい、けぇ子は小首を傾げながらとことこと後を追う。
脱衣所を抜け、湯殿の側へと向かい、湯船の縁に立つなり、ざぶりと湯の中に足を入れる善右衛門。
江戸の湯屋に比べると少しばかりぬるい湯だったが……温泉の効能か、その温かさが骨の心まで染み入って来て……これは良いと、善右衛門はそのまま身体全てを湯の中に沈める。
すかさず染み込んでくる湯の温かさに思わず深く息を吐き、声を漏らし……そうやって湯を堪能する善右衛門。
そうして一心地ついた善右衛門は……けぇ子が湯船の縁で、湯に浸からずに居るのに気付いて、
「けぇ子、お前も湯に浸かれ」
と、声を上げる。
「え、で、でも……私は……」
「良い良い、変な気を使うな。
俺はもうお前相手には気を使わないことと決めた、お前だけ変に気を使っても損をするだけだぞ」
そんな善右衛門の言葉を受けて、しばらくの間悩んだけぇ子はゆっくりと頷いて……おずおずと湯に足を入れ、身体を入れ、ぷかりと湯に浮かび、両手両足尻尾を湯に投げ出す。
そうして善右衛門と同様、息を吐き、声を漏らし……湯が染み入るのを堪能するけぇ子。
そうやって二人が湯に浸かれば浸かるほど、湯に疲れが溶けていけばいく程、お互いの間にあった、気遣いや緊張感も溶けていって……善右衛門とけぇ子の表情はほころび、すっかりと油断したものとなっていく。
十分過ぎる湯に浸かり身体を芯から温めてから、湯船から上がり……けぇ子から何処からか取り出したムクロジの果皮やら椿油やらの品々を使い身体を清め、解いた髪を、あるいはその身を覆う毛を清め、整え、そうしてから再び湯に浸かる善右衛門と、その毛を、毛皮を清め整え、再び湯に浸かるけぇ子。
お互いに余計な言葉を使わず、お互いに気を使わず……どれだけの時間そうしていたのか、のぼせる一歩手前まで湯を堪能し続けた善右衛門とけぇ子は、このままではのぼせてしまうと気付き、慌てて湯から上がり脱衣所でもってほてりを冷ます。
そうやって十分にほてりを冷ました善右衛門は、身支度を整えて、けぇ子の用意した寝間着へと袖を通し……いつの間にかまた人の姿、寝間着姿へと化けていたけぇ子に先導されながら、支度を整えてあるという寝所へと向かう。
「何か不足の物があったら、言ってくださいね」
寝所に下げられていた蚊帳のとばりを捲りながら、そう言うけぇ子に、善右衛門は、
「今日は色々と世話になったな。
……有り難う、おやすみ」
と、一声かけて、返事を待たずに蚊帳をくぐり、布団へと潜り込み、枕に頭を預け、目を瞑る。
そうして長旅の疲労と、満腹感と、温泉に入ったことによる温かさと、頭痛からの開放感で、眠りに落ちていく善右衛門。
「……こちらこそお世話になりました、改めまして心よりのお礼を申し上げます……。
それでは、おやすみなさいませ、善右衛門様」
蚊帳の外のけぇ子からのそんな返事は、善右衛門の耳に届いたのか届かなかったのか。
それから善右衛門は朝を迎えるまで、夢を見ることすらなく熟睡し続けるのだった。
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