第56話 遊教への沙汰?
「いだだだだだだだだ!?」
八房に脛を噛まれたことで正気を取り戻し、その痛みでもってそんな悲鳴を上げる遊教。
そんな遊教に構うことなく八房はがじがじと遊教の脛を噛み続けていて、遊教はどうにか噛むのを止めさせようと手を伸ばそうとする……が、相手が神であることを思い出し、伸ばしかけた手の動きを止めて、ぐっと拳を握り込んで痛みに耐えるとの姿勢を示す。
そんな遊教の姿勢に全く構うことなく八房は、がじがじがじがじと脛を噛み続けていて、その牙を一切の容赦無く遊教の脛へと突き立てている。
そうした遊教と八房の様子をぼんやりと眺めながら善右衛門が(さて、これはどうしたものだろうかな)と思案していると、ずいと遊教の足元へと進み出た権太が声を上げる。
「遊教の旦那、そのままおとなしーく八房様に噛まれておいた方が身のためですぜ。
旦那が瘴気を受け入れちまったもんだから、身体も心も半ば妖怪化しちまっていやす。
八房様はそんな旦那の体を浄化しておいでという訳で、大人しく受け入れるべきでさぁ」
遊教のことを心の何処かで非難しているのか、半目で、厳しい声でそう言う権太に、遊教は「ぐう」としか返せずにそのまま黙り込む。
自らのせいでこうなったのだから痛いと悲鳴を上げることすら不遜であると、そんなことを言いたげな権太達の視線に負けてしまったのだろう。
「……人が妖怪になるなど、そんなことがありえるのか?」
そんな権太達に対し、善右衛門がそんな言葉を投げかけると権太がくるりと振り返り「へい」との一言を頷きながら返してくる。
「古今東西、人がその怒りや恨みといった感情の余りに妖怪に化けたっちゅー話はよくあることでして。
有名所だと泥田坊、朧車、一本だたらなんかがそうでやすね。
あっしらのような妖怪変化とはまた違う、一目見るだけで正気を失っちまうような、おっそろしい妖怪達でございやす。
愛の余りに大蛇になったお姫さんや、身投げの果てに龍に化けたお姫さんなんかも有名ですかねぇ」
「……なるほど。
で、今の遊教もその恐ろしい妖怪とやらになりかけていて、それを八房が止めているというか、浄化してくれていると、そういうことか」
「へぇ、そうでございやす。
ここが神域で良かったっつーかなんつーか、おかげで八房様の力も増しておりますんで……まぁ二刻かそこらで済むかと思いやす」
そんな権太の一言に、真っ先に反応をしたのは遊教だった。
「ま、待て、二刻もこれに耐えなきゃならんのか!?
傍目にどう見えてるかは知らねぇが、この痛み、まったくもって洒落にならねぇ!
以前に受けた鞭打ちが可愛く思える程だぞ!!」
そんな遊教の切羽詰まった一言に対し、善右衛門も権太も……権郎も権三も何も言葉を返さない。
ただ冷たい視線だけを送り、その視線でもって『自業自得だろう』との心の内を伝えるのみ。
そうしてまたしても「ぐう」と唸った遊教を見て、善右衛門はため息交じりの言葉を吐き出す。
「ならば浄化については八房に任せておくとして……後の問題は遊教の処遇だな。
いくら瘴気に呑まれていたとはいえ、それが悪と知った上で力を貸し、俺達に襲いかかった事実は見逃せぬ。
その暴挙に対し、さて、いかなる沙汰を下したものか……現行犯だからと斬って捨てても良い訳だが……」
いくら町奉行とは言え、何の手続きもなしに人を斬ることは許されていない。
だがしかし、相手が悪意を持って悪を成す危険な悪人となれば話は別で、町人達を守る為、平和に暮らす人々を守る為に、その凶行を止める目的でもってその刀を振るうことは許されている。
遊教はよりにもよって奉行当人に襲いかかってしまったという、言い訳無用の現行犯な上に、妖怪になりかけた化け物でもあり、そんな始末の悪い現行犯人、たとえ斬って捨てたとしても問題になることは万に一つも無いと言えた。
勿論善右衛門としては、暴れるのを止めて神妙にしている遊教を今更になって斬るつもりなどさらさら無く、これはあくまで遊教を脅かす為の方便であった―――のだが、その効果は覿面で、遊教だけでなく、権太、権郎、権三までもがその方便を真に受けて、泡を食って震え始める。
そんな中で八房だけは唯一善右衛門の真意に気付いているようだったが、善右衛門の『仕置』の邪魔をするわけにはいかないと、ただ遊教を浄化することだけに意識を集中させて、がじがじがじがじと遊教の脛をかじり続ける。
そうして善右衛門は、なんともわざとらしい頷きを見せた後に、何かを決心したような固く厳しい表情を作り出して、その手にした刀を構え直すのだった。
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