第90話 雪


 祝言から十日が過ぎて、善右衛門達は山から降りてくる寒さの中、以前と変わらない当たり前の日々を送っていた。


 夫婦となって、こまも一緒に暮らすようになったという大きな変化はあったものの、その前からけぇ子と一緒に暮らしていたのもあってか、そこに真新しさはなく……善右衛門としては以前とそう変化の無い、なんでもない毎日でしかなかったのだ。


 妻であるけぇ子やこまからすると、善右衛門のそういった態度はあまり喜ばしいものではなかったのだが、何しろ相手が不器用で堅物な善右衛門であるので、深くは気にせず考えず、善右衛門らしいものとしてするりと受け止めて、上手に受け流していた。


 そして善右衛門がそんな日々を送る中で、誰よりも大きな変化を迎えていたのはあの遊教であった。


 みみずくの娘、つくしを妻に迎えて、一緒に暮らすようになって……すぐにでも遊び始めるだろうとの善右衛門の予想を裏切り、意外にも真面目に、真摯につくしと向き合い、夫らしく在り続けていたのだ。


 つくしの性格がそうさせるのか、それとも美しさがそうさせるのか。


 ふんわりと膨らんだ美しい黒短髪に、どんぐりのような目に柔らかい口元に。

 みみずくの羽根の模様を思わせる着物を身にまとい、生命力に溢れた笑みのつくしは、兎にも角にもそうして遊教を上手く自らの下に留まらせていた。


 遊教が出かけるのはうらに会いに行く時か、町の皆に説法をする時くらいのもので、それが終われば真っ直ぐにつくしの下へと帰ってくる。


 それは全くもって遊教らしくない行動であり、その話を聞いた当初、善右衛門もまさかそんなことがある訳ないと疑っていたのだが……事実として遊教がそうしている以上、自らの目でその光景を見てしまった以上は、素直に受け入れるしかなかった。


 祝言とは、妻とはここまで男を変えるものかと善右衛門は驚き、同時に妻のつくしに感服したのだった。


 一緒に祝言を上げた熊の夫婦もまた仲睦まじく、うまくやっているとのことで……人と妖怪達と無何有宿の新たな門出は、なんとも上手い具合にその一歩目を刻んでいた。




「世の中というのは、思ってもいないところから上手く行くものなのだなぁ。

 まさかあの遊教がなぁ……」


 いつもの見回りと、書き仕事を終えて、縁側に腰を下ろしながらそんなことを呟く善右衛門。

 

 その呟きに対し、側に座っていた八房が「ひゃわん!」と声を返し、善右衛門のことを見上げてくる。


「……あれはあれで根は真面目なのだから当然だ、とでも言いたげだな?

 いやしかし、あの遊教だぞ? 女遊びに興じすぎて刀傷沙汰を起こすあの遊教だぞ?

 まさかと思うのが当然で……今のこの平穏がいつまでも続くとは全く思えない、いや、思わせないのがあの遊教だからなぁ……」


 八房のことを見やりながら善右衛門がそう呟くと、八房は呆れ混じりの表情をしながら大あくびをし、くるりと回転しながら丸くなり、晩秋終わりの日差しを惜しんでいるかのように、日光をたっぷりと浴びながらの昼寝を始める。


 その様子を見て、八房のでこを軽く撫でてやった善右衛門は、自分も日光を楽しむかと瞑目し、静かに息を吐く。


 もう間もなく晩秋が終わり、冬がやって来る。


 山深くにある無何有宿はそれ相応の雪に包まれることになるだろうが……人と妖怪達が手を取り合っていれば、問題なく乗り越えられるだろう。


 ……そして出来ることならば、そういった日々をなんでもない雑務だけをして過ごしたいものだ。


 変な事件も無く、白洲の場を開く必要もなく、ややこしい沙汰を下す必要のない平穏な日々を強く願う善右衛門。


 そうして静かで、暖かなひとときを過ごしていると、そこに気配を殺したけぇ子とこまがやってくる。


 気配を殺していてもその気配は確かで、そこから確かな熱が漂ってきていて……二人の存在に気付きながらも善右衛門は静かに、何も言わず何もせず瞑目し続ける。


 するとけぇ子とこまは、そんな善右衛門の隣に腰を下ろし、そっと寄り添い……そのまま何も言わずに、晩秋の空を眺め始める。


 そうやって今度は三人と一匹のひとときが始まり、ゆるやかに時間が流れていって……そのまま、夕刻までそのまま時が流れるかと思われたその時、けぇ子の口から小さな声が漏れ出る。


「あ、雪ですよ、雪!」


 その声を受けて、善右衛門はまさかと目を見開く。

 晩秋も終わりに近づき、そういう季節であるのは確かだが、まだまだそこまで寒くないはず、そこまで空気は冷えていないはず……だったのだが、いざ見てみれば確かに空からひらひらと、雪が舞い降りてくる。


 気付かぬうちに寒さに慣れていたのか、それとも三人寄り添っていた為に寒さを受け付けていなかったのか……ともあれそうして無何有宿は冬を迎えることになるのだった。


 ――――第十二章 了

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