僻地での生活
第6話 僻地での食事
狸達の作業を、笑みを浮かべながら眺めていた善右衛門は、ふいに頭の……目の奥の方で強い眠気が渦巻いていることを感じ取る。
これまで頭痛のせいもあってあまり眠れていなかったのだが、その頭痛が鎮まったことで、抑え込まれていた眠気が一気に暴れだしてしまったようだ。
ここまでの旅の疲れもあるし、妙な出来事の連続ですっかりと疲れてしまったのもある。眠気が暴れるのも当然か、と善右衛門は喉の奥でうねるあくびを噛み殺してから……無言でそっと狸屋敷を後にする。
そもそもこの僻地で真っ当な暮らしを送るつもりなどさらさら無く、布団だのといった寝具の類は用意してこなかったが……それでもけぇ子達が張り替えてくれたらしい真新しい畳がある。
あの畳の上で、自らの腕と畳んだ旅装でも枕にすれば十分に眠れるだろうと、そんなことを考えながら善右衛門が奉行屋敷へと向かって歩いていると……そんな善右衛門の後を追ってくる何者かの気配がある。
隠す気の無い堂々としたその気配に一体何者だと善右衛門が振り返ると……そこに居たのはけぇ子だった。
落ち葉色の落ち着いた柄の着物に身を包み、ふんわりとした黒髪を首後ろで束ね、柔和な微笑みを浮かべる顔の上に狸耳、着物の何処から出しているのか分からぬ大きな狸尻尾。といった女の姿に化けたけぇ子は、何も言わずにしずしずと善右衛門の後に着いてきていて……善右衛門の視線に気付くやにっこりと微笑んでくる。
そんなけぇ子に何か言おうと善右衛門は口を開く……が、何かを言いたい気持ちよりも眠気と面倒臭さの方が勝り、無言のまま奉行屋敷へと足を進める。
そうして奉行屋敷へと入り、玄関に腰を下ろした善右衛門が、きつく締めていた旅装の紐を解き、草鞋の縛りを解き、足袋の紐を解いていると、続いて屋敷に入ってきたけぇ子が玄関脇にあった木箱を開けて、そこから手ぬぐいと桶を取り出し、それらを持っていそいそと屋敷の外へと出ていってしまう。
そうやって屋敷の外に出て行ったかと思えば、間を置かずに玄関へと帰って来て、手に持っていた桶を善右衛門の側へと置き、その桶の中の……湯気立つ湯の中に手拭いを浸し始めるけぇ子。
それを見て善右衛門はこの短い間に一体どうやって湯を用意したのか、との疑問を抱くが……妖怪のすることなのだから、こういうこともあるかと一人で納得する。
そうやって一人で得心顔をしている善右衛門の足をそっと手に取るけぇ子。
湯に浸した手拭いで足の汚れを綺麗に拭き取り……程よい暖かさの湯で満たされた桶の中にその足をそっと置く。
あまりに自然な仕草でそうされた為に、されるがままされていた善右衛門は、けぇ子にそうされたことに小さく動揺する。
まさか化け狸に足を洗って貰うことがあるとは思いもよらず、そもそもけぇ子にそれが出来るとは思いもよらず……そうやって善右衛門が動揺しているうちに、善右衛門の足を洗い終えたけぇ子は笑顔で、
「すぐに夕餉の支度をしてきますね!」
と一言。
善右衛門の返事を待つこと無くいそいそと玄関から出ていき……恐らくは勝手口の方に回ったのだろう。屋敷の奥……台所があると思われる方から、ぼふん、ばかんと夕餉の支度とはとても思えぬ奇怪な音が響き聞こえてくる。
そんな音を耳にしながら善右衛門は、
「礼を言いそこねてしまった……」
と、独り言ちてから立ち上がり、居間へと足を進めながら……あんな音をさせるとは一体どんな夕餉が出てくるのだろうかと思いを巡らせる。
確かけぇ子は、きのこだの、虫だのを食べると言っていた。
きのこはともかくとしてまさかの虫が夕餉に出てくるのか……?
蜂の子だの、蝗などは上手く炒めると食えるらしいが……うぅむ、海老だと思って堪えるしかないか。
などと覚悟を決めながら居間へと到着すると、そこには上等な綿を使っているらしいふっくらとした座布団が敷かれていて……その近くには綺麗に畳まれた一着の浅葱色の浴衣が置かれている。
浴衣か……と一瞬眉をひそめる善右衛門だったが、こんな僻地で一体誰の目を気にするのかと思い開き直り、静かに旅装を脱ぎ、その浴衣へと袖を通す。
そうして座布団の上に胡座に腰を下ろし、善右衛門が一息ついた折、けぇ子が朱塗りの膳を運んでくる。
善右衛門の前に置かれた膳の中には、何処から用意したのか白米に、味噌汁、ヤマメの塩焼きに、沢庵漬けの姿があり……全く予想もしていなかった、その真っ当な膳の組み立てに驚く善右衛門に、けぇ子は、
「お口に合うと嬉しいです!」
と一言そう言ってから、居間から立ち去り……すぐにもう一つの膳、けぇ子の分の物と思われるそれを持って帰って来て、善右衛門の向かいに前を置き、居間の隅に置かれていた座布団を敷いて、そこに正座に腰を下ろす。
けぇ子の膳も善右衛門のそれと全く同じ組み立てのようで……それを見た善右衛門は思わず言葉を漏らす。
「……虫でも出てくるかと思ったのだがな、これも妖術で変化させたものなのか?」
「いいえ、いいえ! まさかそんなとんでもないことです!
そんなものを食べたらお腹を壊してしまいますよ!!
これは善右衛門様の為にと前もって用意しておいた、ちゃんとした食材で作ったお食事なのでご安心ください!
虫はー……私達は好きですけども、善右衛門様はお嫌いかなと思ってあえて避けましたがー……お食べになります? この時期ならさいかち(かぶと虫)が美味しいですけども」
「……いや、やめておく。
滋養があると聞く蜂の子ならいざ知らず、さいかちなど食べたらあの角で腹に穴が空いてしまいそうだ」
「あの角も噛み応えがあって美味しいのですけどねー……。
まぁ、この時期なら蜂の子も美味しいですし、明日は蜂の子に致しますね!」
「む……」
これは失言だったかと顔をしかめる善右衛門だったが、けぇ子の嬉しそうな笑顔を見て、今更止めろというのも躊躇われて……男らしく無い気がして、喉から出かかっていた言葉を飲み込む。
そうして会話を打ち切った善右衛門は箸を摘み、湯気立つ味噌汁の椀を一掴みし、その中身を一口飲み込む。
すると口の中に広がるのは味噌の豊かな風味と、山菜のものと思われる出汁と苦味。
「美味い……」
その味噌汁のあまりの美味さのせいで、今度の言葉は飲み込む間も無く喉から出ていってしまう。
そんな善右衛門の言葉を受けたけぇ子は、その大きな尻尾をふさふさと揺らしながら、
「嬉しいです!」
との一言と共に、弾けんばかりの大きな笑みを浮かべるのだった。
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