第20講 アラゴのメダル、不可視の線の可視化

「みなさん、こんにちは、<時>にまつわる講義も、今回で、第三回目になります。

 第一回目の講義の際に扱ったように、標準時間(冬時間)における、イギリスのロンドンと、日本の東京の間の時差は九時間、そして、たとえば、フランスのパリのような西欧諸国と東京との間の時差は、八時間です。ということは、ロンドンとパリの間にも一時間の時差があるということになります。

 つまり、です。

 世界における<時>の基準はロンドンということなのです。

 もっと、厳密に言うと、ロンドン郊外にグリニッジという場所があって、その地にあるグリニッジ天文台が時の基準だったのです。

 ところで、みなさん、子午線って、どういったものだか分かります?

 子午線、横文字で言うと、<メリディアン meridian>というのは、赤道と直角に交差するような、南極点と北極点とを結ぶ大きな楕円の弧を描く線のことです。両極を結んでいる線なので、<南北線>と呼ばれることもあり、この線こそが経度を表す<経線>です。ちなみに、日本語の<子午線>という名称は、子(ね)の方角である北、牛の方角である南に由来しています。

 とまれかくまれ、子午線は、南極と北極を結ぶ線なので、その数は、理論上、無限に存在し得るのですが、イギリスのグリニッジ天文台の中心を通過している子午線こそが<グリニッジ子午線>、と呼ばれているのです。これこそが、かつては、経度〇度〇分〇秒を示す、国際的に使用される<基準子午線>、すなわち、<本初子午線>とされてきました。つまり、世界各地の標準時刻は、グリニッジを基準としてきたので、世界の基準としての時間は、<グリニッジ標準時>、あるいは<グリニッジ平均時>と呼ばれていたのです。

 ここで『かつては』と但しをわざわざ付けたのは、実は、今現在用いられている本初子午線は、グリニッジ子午線を修正した<IERS基準子午線>で、これは、グリニッジ子午線の一〇二.四七八メートル東を通っています。その結果、グリニッジ子午線の実際の経度は、西経〇度〇分五.三一〇一秒なのです。

 ですから、厳密に言うと、グリニッジ子午線は、経度〇度〇分〇秒の本初子午線ではないのですが、この修正は微細であるため、通俗的には今なお、グリニッジ子午線を本初子午線として用いることも少なくありません。この講義でも、この地理的名称を用いるほうが話がシンプルになるので、イギリスの子午線のことを、<グリニッジ子午線>と呼ぶことにいたします。


 さて、東西を結ぶ緯度に関しては、赤道などの明確な基準が<自然>に存在しているのですが、これに対して、南北を結ぶ経度に関しては、<人為>的に設定しなければなりませんでした。

 それゆえに、世界の国や地域には、それぞれ独自の、経度〇度を示す<本初子午線>がありました。

 たとえば、今のベルギーのフランドルには、<アントウェルペン子午線>があり、フィレンツェには<フィレンツェ子午線>、ローマには<モンテマリオ子午線>、ワルシャワには<ワルシャワ子午線>、サンクト=ペテルブルクには<プルコヴォ子午線>といった次第で、つまるところ、イギリスの<グリニッジ子午線>は、世界に数多存在する子午線の一つで、イギリス独自の本初子午線に過ぎなかったわけなのです。

 とは言えども、一八八四年の時点で、世界の三分の二以上の船は、イギリスのグリニッジ子午線を基準とした海図を用いていました。しかし、翻って言うと、三分の一は、グリニッジ以外の子午線を使っていた次第なのです。

 そのため、一八八四年十月、アメリカの提唱によって、世界二十五か国、四十一の代表がワシントンに集まって、国際子午線会議が開かれました。そして、この会議で、グリニッジ子午線を、世界における公式な本初子午線とすることが採択されたのです。

 しかし、これに異を唱えた国がありました。

 フランスです。

 会議における不利を悟ったのか、フランスは評決そのものを棄権してしまいました。そのフランスが用いていた本初子午線こそが、<パリ子午線>なのです。

 

 パリ子午線とは、パリの南に位置しているパリ天文台を通過している子午線です。

 パリ天文台は、ブルボン朝の国王ルイ十四世の治世に建設されました。そして一六六九年から一六七〇年の間に、フランスの天文学者ジャン・ピカールが、<三角測量>によって子午線を測定し、フランスでは、この子午線を本初子午線としてきたのです。

 そして、フランス大革命後の革命政府の時代、一七九二年から一七九九年の間に、子午線の再測量が行われました。

 それは、フランス本土最北端の港湾都市ダンケルクから、スペインのバルセロナまで三角測量を行って、より正確なフランスの本初子午線を作成し、これに基づいて、<メートル>の正確な長さを規定しようとした試みでした。

 一メートルとは、子午線の全周の長さの四千万分の一の長さであり、これを、三角測量によって正確に割り出そうとしたのです。


 この役目を最初に担ったのが、ピエール・メシャンと、ジャン=バティスト・ジョゼフ・ドランブルでした。だがしかし、その事業は、メシャンの死によって中断してしまいます。

 そして後に、その任務を引き継いだのが、ジャン=バティスト・ビオとフランソワ・アラゴでした。

 ビオとアラゴは、一八〇六年にパリを出発して、スペインで作業を始めたのですが、ビオの方は、測量範囲の最南端であるフォルメンテラ島の井戸を特定するとパリに戻ってしまい、結局、アラゴが独りで、パリ子午線の測定作業を続行することになったのです。

 十九世紀初頭の、皇帝ナポレオンの第一帝政時代、フランス軍がスペインに侵攻していたという事情もあって、アラゴの測量は、スペイン人から諜報活動と疑われ、投獄されたり、脱獄したり、虜囚状況から逃れたものの、今度は、スペイン人の海賊に襲撃され、監禁されたりなどなど、アラゴの活動は波乱万丈なものでした。

 大革命以後の、メシャンやアラゴによって、再測量されたパリ子午線は、一八八四年十月に、グリニッジ子午線が、国際的な本初子午線になって以降も、一九一一年まで、フランス独自の本初子午線として用いられてきたのです。

 現代では、グリニッジ標準時を基準としているので、パリ子午線は、東経二度二〇分十四.〇三秒、ロンドンとの時差は一時間とされています。


 そして時は流れ、一九九四年――

 アラゴ協会とパリ市によって、とある企画が為されました。

 それは、北と南の方角を示す「N」と「S」の文字、さらに、円の中央部に「ARAGO」の文字が刻まれた直径十二センチの銅製のメダル百三五枚を、パリの南から北の九・二キロメートルに渡って、パリの子午線に沿って、地面に埋めるというものでした。

 その<パリ子午線>上には、パリ天文台、サン=シュルピス教会、パレ・ロワイヤル、ルーヴル美術館などが存在しています。

 パリ天文台の床にこそ、<パリ子午線>を示す線が引かれているのですが、パリの市内には、当然、<パリ子午線>を示す線が地面に引かれているわけではありません。

 つまり、アラゴのメダルの設置とは、不可視の<子午線>を可視化する試みだったのです。

 ロマンがあるでしょう? えっ、ない?

 実は、わたくし、ちょうど十年前に、自分の研究のフィールド・ワークのために、パリを三週間訪れていたのですが、その際に、パリの天文台を出発点にして、パリ子午線をたどってみたことがあります。

 しかし、です。メダルが設置されているはずの箇所の中には、円形のメダルがはめ込まれていた痕跡だけが残っているだけで、残念ながら、幾つかは盗まれてしまっていました。これは、非常に残念な事態です。

 ちなみに、これがアラゴのメダルです」

 隠井は、メダルの写真を見せた。

 「この『アラゴのメダル』、みなさんの中にも知っている人、あるいは、目にした事がある方も、もしかしたら、いらっしゃるかもしれません。

 実は、このメダル、今から約十五年前に劇場公開された映画『ダ・ヴィンチ・コード』において、物語内容上、非常に重要なキー・アイテムとして出てきているからです。

 物語の中で、教会のシスターが殺害されるシーケンスにおいて、教会に向かう男の足元に着目してください。アラゴのメダルが見えますよ。また、この教会は、パリの左岸、第六区に実在する、サン・シュルピス教会です。パリでも大きな教会です。

 このサン・シュルピス教会は、パリ子午線上にあり、教会の床には、パリ子午線を示す線が実際に引かれています。

 ただし、映画の舞台になったことによって、映画の舞台探訪者が大挙押し寄せてしまい、どうも、教会は困窮しているようです。もし、みなさんが、サン・シュルピス教会を訪れた際には、ニワカっぽさを隠して、一観光客としてうまくふるまってくださいね。

 さて、アラゴのメダルは、劇中では、最後のシーケンス、パレ・ロワイヤルや、ルーヴル美術館のピラミッド入口の場面にも出てきます。

 物語内容に関しては、まだ観ていない人もいるかもしれないので、詳しいことはDVDで観てって感じなのですが、背景を食い入るように見て、「ARAGO」のメダルを発見してみてくださいね」

 そう言った後、隠井は、持参の『ダ・ヴィンチ・コード』コンプリート・ボックス(完全初回限定生産)の円盤を自慢げに見せた。

 そのDVDの表面のデザインは、ARAGOのメダルを模したものだったのである。 


「さて、来週の講義なのですが、学校側による講義回数調整のため、木曜日が火曜講義開催日になります。間違えないように注意してください。それでは、来週木曜日の火曜日(仮)に、また」


<参考資料>

『ダ・ヴィンチ・コード』,監督:ロン・ハワード, 脚本:ダン・ブラウン;アキヴァ・ゴールズマン,製作会社:イマジン・エンターテインメント,配給:ソニー・ピクチャーズ,上映時間:百四十九分(劇場公開版); 百七十四分(エクステンデッド版),公開:アメリカ合衆国,二〇〇六年五月一九日;日本 ,二〇〇六年五月二十日,

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