第04講 パンデミック下のパラダイム・シフト

 緊急事態宣言の発令から瞬く間に時は過ぎ去り、四月下旬になっていた。

 連休に入る直前、ついに、全ての大学当局から、講義の開始は、ゴールデンウィークの連休明けからで、当面の間はオンラインで講義、連休の間にその準備を、という一方的で突然の連絡がきた。連休明けからの対面講義の開始という希望的楽観をしていた大学の幾つかも、なかなか減らない感染者数という社会的状況を受け、ようやく、オンライン講義実施の要請をしてきたのだ。ある意味、予想通りなのだが、このような唐突な指示は、いわば、準備のために連休を潰す事の半強制である。

 とまれかくまれ、かくの如き理由から、世間一般における「連休」とは、単に文字だけの話となってしまい、四月末から五月の初めは、オンライン講義の準備、自宅から配信をするための機器の設置や配信のリハーサル、オンライン講義で扱うための資料の準備などで忙殺されることになってしまったのだった。

 ほとんどの大学において、通常の春学期のスタートは四月の初旬、ないしは中旬なのだが、これが、今年度に関しては、五月の連休明けに設定されたとしても、だからといって、春学期の終了が、数週間分、後ろ倒しになって、八月半ばになる、というわけではない。しかし、何らかの形で、休講分の不足を補完しなければならない。

 そこで、隠井は、自分が担当している比較文化論のゼミに関しては、「課題講義」としてレポートを課すことにした。


 そして、隠井が選んだテーマは以下のようなものである。


「<COVID-19>というパンデミック状況下において、今現在、リアルタイムで確認できる<パラダイム・シフト>について具体例を挙げ、この感染症の前後に確認できる変化について言及しなさい」


 このようなテーマを設定した所で、ふと思った。

 大学三年生くらいだと、受講生の中には、「パラダイム」という用語について無知なゼミ生もいそうだ。そこで、「パラダイム」について簡潔に説明し、具体例を記載したファイルを添付しておくことにした。これくらい自分で調べて欲しいとも思うのだが、現在、図書館が使えない状況なので、少しサービスしておくことにした次第なのだ。


 「パラダイム(paradigm)」とは、一般的な意味では「範」や「模範」を意味する言葉である。

 しかし、一九六二年刊行の『科学革命の構造』の中で、著者である科学史家・科学哲学者トーマス・クーンが、科学史あるいは科学哲学における特別な用語として「パラダイム」という概念を提唱した。

 クーンは科学史家であるため、この「パラダイム」という概念を、その専門である自然科学という限定された分野のために考えたのだが、この用語は、提唱者の意図を越えて、本来は適応できないような広い領域にさえ使われるようになり、その結果、数多くの誤った解釈が為されてしまった。そのため、クーン自身が、一九七〇年上梓の『科学革命の構造』の改訂版の中で、「パラダイム」という用語の撤回を宣言したのだが、それから半世紀を経た二〇二〇年現在、最初の提唱者であるクーンの意図はどうであれ、「パラダイム」は今なお広い領域で使われ続けている。

 そうして一般的な意味を獲得した「パラダイム」とは、簡単に言うと、とある時代のとある集団が共通して抱いている物の見方・考え方のことである。

 たとえば、十九世紀的な文学研究のパラダイムは<作者研究>であった。つまり、作品を分析することも、それを書いた<作者>について知るためのものであった。別の言い方をすると、作品の外側にいる作者と、作者にまつわる事象について研究する、いわば、作品の外部、<外在研究>だったのだ。

 これに対して、二十世紀的な文学研究のパラダイムとは<テクスト研究>である。つまり、作品を創作した作者という存在をいったん括弧に入れて、こう言ってよければ、分析から、作者という作品の外側を徹底的に排除する。そして、作品には、どうしても作者の存在が付着しているため、書かれたものを、作品ではなく、テクストと称し、その<テクスト>それ自体の内部を研究対象とした、いわば<内在研究>だったのだ。

 そして二十一世紀的な文学研究のパラダイムは、作者よりも作品寄りの<内在研究>に比重があるという点では、二十世紀のパラダイムである<テクスト研究>の延長線上にあるのだが、テクストを、より<面白く読む>ためには、二十世紀的なパラダイムが排除してきた作品の外側の利用も厭わないという研究方法である。

 簡単にまとめると、文学研究の<パラダイム>は、十九世紀は<作者>に関する外在研究、二十世紀は<テクスト>に関する内在研究、二十一世紀は、外在と内在が混交した<作品分析>に移り変わっていったことが指摘できよう。

 このような、とある時代におけるとある集団の物の見方・考え方の移り変わりこそが<パラダイム・シフト>なのである。


 音読しながら二度、見直した後で、このワードファイルをPDF化して、資料として大学のオンライン講義システムの「掲示板」にアップした。

 昨年までだったならば、さまざまな古今東西の歴史の中から具体例を見付けてくるという形式になったはずなのだが、今、まさに、世界規模に拡大している感染症のせいで、社会の様々な局面において、リアルタイムで<パラダイム・シフト>が発生しているのだから、これは、非常に同時代的なテーマだと言えよう。

 そして、このレポートにはもう一つ目的があった。

 こういった社会的状況下にあって、未だ今年のゼミ生には一度も会えていない。四年生の中には何人か面識のある者もいるのだが、三年生に関しては、どういった受講生が自分のゼミにいるのか、まるで分からないのだ。

 自分が、今回提示したレポートテーマは、ゼミ生全員に共通のものなのだが、どのような具体例を選んでくるかによって、受講生の趣味・趣向が窺い知れるというものであろう。

 講義のシラバスには、「社会における様々な文化的事象が比較研究の対象、ハイカルチャーからサブカルチャーまで」と書いておいたし、学生サークルが作成し、三月に発売された講義選択のためのガイドブックでは、「ヲタク講師」って書かれていたので、受講生も、あまり固く考え過ぎずに、自由に思考してくれるに違いない。

 どんなレポートがあがってくるのか、実に楽しみだ。

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