第03講 パーン、パニック、パンデミック

 はい、みなさん、初めましてですね。聞こえてますか? わたくしの声が聞こえている場合には<手を挙げて>みてください。アプリの機能の中に<反応>ってボタンがあって、それで手の上げ下げができるはずなのですが。

 何人か手が挙がっていないみたいだね。スマホと、タブレット、PCで、挙手ボタンが在る場所が違うのかな?

 この講義の中では、君達に反応を求める場合もあるので、この話を聞きながらでかまわないから、色々いじくって、挙手ボタンの使い方を確認してみてくださいね。


 さて、今日から、私の気の赴くままに、古今東西の様々な<文化>について、お話していこうと考えています。

 今現在、こういった状況下にあって、実際に大学に通うこともできず、ネットを使ってライヴ生配信講義を展開している次第なのですが、コロナ・ウィルスが世界中で拡がって、ニュースその他において、最近「パンデミック」って言葉を耳にしたことのある受講生もいるかと思います。


 日本において、「パンデミック」は「感染爆発」と訳されているのですが、簡単に言ってしまうと、広い範囲、たとえば世界中で大流行し、多くの感染者を発生させる病、まさに、コロナのような伝染病のことを指します。

 これまでの歴史の中で、人類は何度か「パンデミック」を経験してきました。

 たとえば、中世ヨーロッパにおける「黒死病」、十九世紀から二十世紀にかけて大流行した「コレラ」、一九一八年から一九一九年にかけて大流行した「スペインかぜ(インフルエンザ)」、一九六八年の「香港かぜ」などが「パンデミック」に相当します。

 世界保健機構(WHO)は、感染症の流行の規模に応じて、レヴェル分けをしているようで、地域的な流行を「エンデミック」、国内ないし数カ国の流行を「エピデミック」、そして、世界的で最大規模の流行を「パンデミック」として区別しているようです。この点の細かい分類は、医学専門の方にお任せることにして、この講義では、「パンデミック」の語源について考えを巡らせてみることにします。


 一般的な普通の辞書を参照してみると、「パンデミック」の語源は、ギリシャ語の「パン(全て)」、そして「デミア(人々)」に由来している、と書かれていて、この語源は、全世界の人々への感染を適切に表しているようにも思われます。

 しかし、「パンデミック」というのは、実は、ギリシア神話の神の一人「パーン」に由来している、という話もあるのです。


 パーンとは、羊飼いや山羊飼いの神で、上半身が人間、下半身が山羊、とがったあご髭に、二本の角に、毛むくじゃらの足、割れた足先という姿形をした半獣半神の神でした。

 この山羊の神パーンには幾つもの逸話があります。


 たとえば、ゼウスとクロノスの戦いの際に、ゼウスに味方したパーンは、戦いにおいて大声で鬨の声をあげました。パーンの声を聞いた者は、心が凍って、誰もがその場で棒立ちになってしまいました。このようにパーンの声には、耳にした者を「恐怖」させる力が備わっていたのです。

 あるいは、ゼウス率いるオリュンポスの神々が、テュポンという巨人と戦った時のことでした。テュポンと対峙したパーンは、恐怖のあまり、本来の上半身が人間、下半身が山羊という姿ではなく、上半身が<山羊>で、下半身が<魚>という姿に変化してしまったのです。それほどまでに、パーンは、驚き慌ててしまったのでした。

 この二つのエピソードは、パーンが驚かす、パーンが驚かされるという逆の状況の逸話なのですが、いずれの場合にせよ、パーンの「恐慌」は甚だしいものだったのでしょう。そして、こうしたパーンの恐慌状態こそが、突発的な不安や恐怖という混乱した心理状態を意味する「パニック」の神話的由来になっているのです。


 さてさて、私が参照した幾つもの神話関連の書籍には、「パーン」の項目に、「パーン」が「パニック」ないしは「パンデミック」の語源だという記述があって、「パニック」に関しては、先ほど話した逸話から神話的な由来は明らかなのですが、「パンデミック」に関しては、単に語源だと書かれているだけで、詳しいことはよく分からないのです。

 なので、ここからは、神話的な知識に基づいた私の推測という、知的な遊びになります。

 先ほど話した、テュポンとの戦いの時に、パーンはパニックに陥って、パーンは上半身が<山羊>で、下半身が<魚>という姿に変化してしまったのですが、この時、あたかもパーンの恐怖が伝染したように、他のオリュンポスの神々も、恐怖のあまり、動物に姿を変えて、エジプトに逃げて行ったそうです。

 神話には詳しいところまでは書かれていないので、だからこそ、ここに想像力を働かせる余地があるのですが、もしかしたら、パーンの恐怖、言い換えれば、<パニック>が他の神々に拡大し、伝染した状況、これが<パンデミィック>の神話的由来になっていると考えられるかもしれません。


 今、現在において使われている、最近耳にするようになった言葉一つからでも、こんな風にしてギリシア神話にまでたどり着き、さらにそこそから、知的に遊ぶことができるのです。こういった事例って他にも結構あるのですよ。

 わたくしの講義では、こんな風にして、様々な文化的な事象について、色々な観点から話してゆき、文化を楽しんでゆこうと考えています。


「ふぅぅぅ~」

 隠井は一息ついて、ミーティング・アプリを使ってのライヴ生講義の<練習>を終えた。

 実は、これは講義本番ではなく、PCをホストにし、スマホをゲストにした模擬講義であった。

 リハーサルも行わずに、いきなりぶっつけ本番は怖い。そこで模擬講義をしてみることにしたのだ。誰かにゲストになってもらおうかとも思ったのだが、おそらくは準備で忙しい他の講師を付き合わせて、模擬講義をするのも気が引ける。そこで、自作自演で、ホストとゲストの一人二役のリハをやってみた次第なのだ。

 しかし、だ。

 相手が見えず、画面に向かって独りで話しているのって、やっぱり、かなりの違和感あるな、と思う隠井であった。


参考文献

「パンデミック感染症」,『日本薬学会』(二〇二〇年六月十日閲覧)

「パンデミック」,『看護roo用語辞典!』(二〇二〇年六月十日閲覧)

「パン」,エヴスリン(バーナード)著,小林稔訳『ギリシア神話物語事典』,東京:原書房,二〇〇五年,一八六~一八七頁.

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