第4講 「アプリボワゼ」すなわち<オモイをツナゲル>、あるいは、原書デ読ムト云フコト

 年が明け講義が再開となった。とは言えども、大学にとっての一月後半はテスト・レポート期間に突入してしまうため、年度<終盤>の印象が強い。

 期末テストは、一月末に実施予定なのだが、試験範囲と残りの講義回数を鑑みると、試験前に一回分ほどの時間的な余裕があった。

 そこで、隠井は、試験とは無関係なのだが、ちょっと変わった講義をすることに決めたのだ。

 文学作品の原書講読をしてみることにした。

 隠井が選んだのは、サン=テグジュペリが書いた『ル・プティ・プランス』、直訳すると『小さな王子さま』、日本では『星の王子さま』という題名で知られている作品である。二十世紀中庸に初版が出て以降、二百以上の国と地域において翻訳され、世界中での総発行部数が一億五千万冊以上にも及ぶ時空を越えた超ベストセラーである。たとえ、読んだことがないとしても、題名くらいは耳にしたことがある、そんな作品であった。

 もちろん、一時間半の講義では原書で読める分量には限界がある。そこで、隠井が抜粋したのは、第二十一章の<王子さまとキツネ>の逸話であった。

 要約すると、こんな内容である。

 

 泣いている王子さまに一匹の狐が声を掛けてきた。

 その狐に王子さまは「僕と一緒に遊びに来なよ! 僕はとても悲しいんだ」と言う。狐が応えて言うに「僕は君とは遊ぶことができないんだ。僕はアプリボワゼ(apprivoisé)されていないからね」と。

 この「アプリボワゼ」という言葉が分からない王子さまは、その意味を狐に問う。しかし狐はなかなか教えない。

 王子さまが三度目に尋ねた後になってようやく狐は応じる。それは「ツナガリを創造することだよ」と。

 そしてさらに狐は説明を加える。「君はまだ僕にとっては、十万人の少年と全く同じような一人の少年に他ならず、僕は君を必要しない。そして君もまた同じように僕のことを必要としない。僕は君にとって、十万匹の狐と全く同じような一匹の狐に他ならないのだ。しかし、君が僕を「アプリボワゼ」したのならば、僕たちはお互いを必要とすることになる。君は僕にとって世界で唯一の存在になるだろうし、僕は君にとって世界で唯一の存在になるんだよ」と。

 この説明を聞いて、王子さまは分かり始める。バラは僕のことを「アプリボワゼ」していたんだな、と。


 学生と一緒にテクストを原書で読みながら、その意味を日本語に訳していって明らかになったことは、この「アプリボワゼ」という単語が、この逸話を読み解く上での鍵になっているということであった。そこで、隠井は、受講生にこの単語の意味を調べさせ、いつも教壇前、最前列に座っている学生を指名した。隠井は彼が常に辞書を携帯していることを知っていたのだ。

「え~と、『プチ・ロワイヤル』では、1『(動物)を飼いならす』、2『(人)をなれ親しませる、従順にする、手なずける』って書いてありますね」

「この『アプリボワゼ』は、英語の『テイム(tame)』に対応する単語で、意味もほとんど同じだよ」

 隠井はホワイトボードにフランス語のスペルとその日本語の意味を書いた。

「でも、だよ。いま物語を読んでみて、この辞書的な意味に違和感を感じてくれたならば、僕的には大成功。それじゃ、さ。先週言っておいたように、この狐の逸話の翻訳箇所を図書館で確認してきてくれた人、挙手っ!」

 何人かが小さく手を挙げた。

「さてさて、図書館に行ってみて分かった人もいると思うけれど、『ル・プティ・プランス』の翻訳は沢山あるよね。じゃあ、誰の訳で『アプリボワゼ』がどんな風に訳されているのか言ってもらおうかな」

 『ル・プティ・プランス』は、一九五二年から二〇〇五年一月まで岩波書店が翻訳権を持っていたのだが、この権利が無くなった後で、数多くの出版社において様々な翻訳が刊行されていた。

「先生、岩波書店の内藤濯(あろう)さんの訳では『飼いならす』になっています」

「これの初版は一九五三年、内藤さんの訳が最も古い訳だね。これは、さっき確認したように完全に辞書的な意味だね」

「先生、 コアマガジンの辛酸なめ子さんの訳でも『飼いならす』になっています」

「この方は、そもそもエッセイストで、作品の全編を通して見てみると、辛酸さんのものは、原書を訳したというよりも、内藤さんの翻訳に自分流の解釈を加えたって感じかな」

「先生、論創社の三野博司さんの訳では『手なづける』になっています」

「『手なづける』も辞書的な意味だよね。『飼いならすだ』だと対象は動物だけど、狐は人間の言葉を使うし、この訳では狐を人とみなして、訳している感じかな」

「先生、皓星社のドリアン助川さんの訳では『なつく』になっています。ドリアンさん、これ本名かな?」

「『なつく』も辞書的な意味で、狐を人扱いしている点では『手なづける』と同じかな。ちなみに、ドリアンはペンネームね。この方、詩人です」

「どれも、なんか、しっくりきませんね」

 窓際に座っていた学生がボソっと言った。

「辞書の最初の意味、日本語の『飼いならす』というのはさ、飼った動物を人の指示に従うように躾けたり、なつかせたりするという意味なんだよね。言ってみれば、飼い主と飼われる者の<上下の関係性>を表わす意味なんだよ。辞書の二番目の意味は、人を目的語にしていて『従順にする』とか『なつかせる』『手なづける』という意味で、主語に対して目的語が逆らわないようにする、という意味、この場合も<上下の関係性>を表わしているという点では、動物の場合と同じだよね。この<上下関係>という含みが、テクストを読んだ時に覚えた違和感の原因なんだよ、きっと」

 ここで、真ん中の列の島中に座っている学生が挙手した。

「はい、質問、どうぞ」

「先生、しかし、それでは、テクストの中で、狐、こう言ってよければ、作者自身が『アプリボワゼ』という語を使っているのは、これは誤用でしょうか?」

「作者であるサン=テグジュペリはフランス人だし、彼がこの単語の意味を間違えて使ったわけはないよ。それならば、テクストのこの箇所でこれほどまでに繰り返し使ったりはしないよ。多分、王子さまも、おそらくはこの単語の辞書的な意味を知らなかったわけではないね。王子が狐に問いを発したその原因は違和感で、きっと<上下関係>を表すこの言葉が状況的に不適切だったからなんだよ。だから狐に三度も尋ねたんだ。これは、物語構成論的に言うと、明らかな<作者>の仕掛けで、この『アプリボワゼ』という単語に<読者>の注意を向けさせているんだ。その証拠に、この単語に括弧がついているでしょ」

「「「たしかに」」」

「つまりさ。『アプリボワゼ』は、物語内容的には、狐が住んでいる地域のみで使われている特別な意味があって、そして小説論としては、ここに、文脈から生じる『ル・プティ・プランス』特有の意味があるんだ。そもそも、狐自身が意味の説明をしているでしょ。誰か、ここをもう一回訳してみて」

「『繋がりを創造すること』ってありますね」

「この狐の説明を精読してみると、ここにあるのは<上下>ではなく、たとえば友人との間の<横の関係>なんだよね。でも、そういった対等な関係って簡単には創ることができない繋がりなんだよ」

「どういうことですか?」

「狐の説明を確認してみよう。知り合ったばかりの頃は、王子さまは有象無象の一人の少年に過ぎず、狐もまた有象無象の一匹の狐に過ぎない。でもそれが『アプリボワゼ』されることによって初めて<唯一絶対の存在者>になり得るってことなんだ。つまりは、知り合ったばかりのこの段階では未だ、お互い大勢の中の一人に過ぎない。でも、積み重ねてゆく時間が繋がりを太くしていって、お互いにとって唯一無二の存在になる。時間をかけて築き上げることこそが『アプリボワゼ』なのだと僕は思うんだ。そして、『ル・プティ・プランス』のこの狐の逸話における『アプリボワゼ』には、日本語の数語の文字では置き換えることができない、文脈的な<意味>がこめられていて、それは括弧付きの『アプリボワゼ』としか言い表わせない翻訳不可能な語なんだよ。こういった点にこそ、小説を原書で読むことの意義があると僕は考えているんだ」

「先生、それでも、もし『アプリボワゼ』を訳すとしたら、先生ならばどう訳します?」

「原文に忠実ではない意訳になるけれど、それはもう考えているんだ」

 隠井は咳払いをした。

「動詞なら<オモイをツナゲル>、名詞化したら<ツナガルオモイ>かな」


「さて、来週はテストです。君たちと、こうして教室で過ごすのもテストを含めて、残り二回になりました。四月に君たちの担当になってから早九ヶ月。四月に会った時には、他の学生と同じように、一万人のその他大勢の学生と同じような学生の一人に過ぎなかった君たちも、一回一回と講義を積み重ねてゆくことによって、僕にとって唯一無二の三十人になった。『ル・プティ・プランス』内の言葉を借りるのならば、君たちを『アプリボワゼ』したって僕は考えているのですよ」

 何人かの学生は同意するような表情をみせた。もちろん、そうではない受講生もいるようだが……。

「もちろん、君たちは、五十八回、単位のために嫌々ながら、その席に座っていただけって学生もいるかもしれない。でも、さ。この積み重ねてきた時間は絶対に嘘じゃないよ。僕と君たち一人一人の間には太くなった<ツナガルオモイ>が絶対にあるはずなんだ。この時間を無駄にしないためにも、テストはしっかりと準備して臨んで欲しいと思います。それではまた来週、オ・ルヴォワール(再会)」

「「「「「オ・ルヴォワール」」」」」


「参考文献」

サン=テグジュペリ(アントワーヌ・ド),『ル・プティ・プランス』,パリ:ガイマール社,pp. 66-68(Saint-Exupéry, Antoine de, Le Petit Prince, Paris : Gallimard, 1946, pp. 66-68.)。

<翻訳>

内藤濯訳,東京:岩波文庫,2017年,pp. 128-131。

辛酸なめ子,東京 : コアマガジン,2005年,pp. 84-87。

三野博司訳,東京 : 論創社,2005年,pp. 93-97。

ドリアン助川訳,東京 : 皓星社,2016年,pp. 102-105。

<仏和辞典>

倉方秀憲編『プチ・ロワイヤル仏和辞典』,東京:旺文社,2003年。

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