第05話 アルファベ、読み方が全然ちが~う

「ボンジュ〜ル、トゥース。

 ちなみに、〈トゥース〉というのは、英語の〈オール〉に相当する単語で、〈こんにちは、みなさん〉って、フランス語で言ってみた次第です。いいですか、この単語を発話する時には、ピンクのチョッキを身に着けて、体を斜に構えて発音してくださいね」

「「「プッ!」」」

 もっと笑ってくれても良いのに、と隠井は思ったのだが、それでも、教室の中の一割ほどの受講生が、マスクの下で、吹き出したようなので、今日のところは、これで満足するしかないだろう。


「……。気を取り直して行きましょう。あっ、それは僕だけか。

 さて、この前、皆さんからは、レポートという形で、日本の中でみかけるフランス語の調査結果を報告していただきました。

 その中に、英語と全く同じ、あるいは、殆ど同じスペルで、かつ、意味も同じであるにもかかわらず、その読み方が違っている単語が、フランス語にかなりあることに気づいた人もいたようです」

 そう言って隠井は、いつものようにスライドを提示した。


 1:table

 2:culture

 3:important


「それでは、誰かに、この1から3を英語読みしてもらおうかな。いきなりだけど、中学英語レヴェルの単語ばかりだし、いけるよね。それじゃ、素数で行こうかな、出席番号二十三番の鈴木くん、お願いします」

「テイボー、カルチャー、インポータント」

「まさしく、その通りです。しかし、スペルも同じ、かつ意味も同じなのに、フランス語読みではこうなります。読み仮名を示した上で、音声を流しますね」


 ターブル、キュルチュール、アンポルタン


「ねっ、全然違うでしょう。

 日本人と中国人が、意思疎通のために漢字を使って筆談することがあり得るように、英国人とフランス人もまた、筆談は可能って理屈になります。だがしかし同時に言い得ることは、口頭で会話しようと望んだ場合、同じ対象について述べようとしているにもかかわらず、英語とフランス語では、全く違う発音をするので、同じことについて言っているのに、互いに何を語っているのか分からないという事態に陥ってしまう可能性があるわけなのです。

 こうした、英語と同じ〈スペル〉なのに、仏語では〈音〉が異なるものの典型は、いったい何かというと、それは勿論〈文字〉そのものの読み方です。

 ここまで既に幾つかの単語を見てきているので、改めて言うまでもないことかもしれませんが、フランス語も英語と同じように、文字は〈アルファベット〉を使います。まあ、フランス語では〈アルファベ〉と呼ぶのですが。

 とまれかくまれ、英語も仏語も使う文字は同じなのです。だが、大きく異なっている点が二つあって、一つは、前回指摘したように、英語では子音字扱いされる、英語読みの〈y(ワイ)〉がフランス語では母音字扱いされ、〈y(イグレック)〉と呼びます。これは、ギリシャ語の〈i〉という意味なので、母音扱いになるわけです。

 そして、最も際立った違いは何かというと、それは、一つ一つの文字の読み方です。ということは、まずは、その読み方からきっちりと身に付ける必要があるということになります」

 そう言って隠井はスライドをめくった。


 A(ア);B(ベ);C(セ);D(デ);E(う);F(エフ);G(ジェ);

 H(アッシぅ);I(イ);J(ジ);K(カ);L(エル);M(エム);

 N(エヌ);O(オ);P(ペ);Q(キュ);R(える);S(エス);

 T(テ);U(ユ);V(ヴェ);W(ドゥブル・ヴェ);X(イクス);

 Y(イグレック);Z(ゼッド)


「この中で、特に注意すべきものを、幾つかピックアップしましょうか。比較しながら見てゆくと分かり易いと思います」


 B;V;W


「まず、〈B〉は普通に〈ベ〉と発音して大丈夫なのですが、これに対して〈V〉は、たしかに類音ですが〈ヴェ〉と下唇を噛んで発音する感じになります。

 そして〈W〉、これは〈ドゥブル・ヴェ〉と発音します。〈W〉は、英語では〈ダブリュー〉です。形に着目してみると〈U〉が二つ並んでいますよね。だから、英語では〈ダブル・ユー〉って発想になるのですが、、フランス語は発想が違います。〈V〉が二つ並んでいるとみなすのです。フランス語では二重のことを〈ドゥブル〉と言うので、つまるところ、二重の〈V〉で、〈ドゥブル・ヴェ〉ってなるのです。

 この考え方、ちょっと面白いでしょう?」


 L;R 


「そして発音上、もっとも難しいのが、〈L〉と〈R〉で、〈L〉の方は、普通に〈エル〉って言えば、概ね大丈夫なのですが、〈R〉の方は、本当に難しくて、喉に引っかかった感じになるのです。あえてフリガナを当てる場合には、音の違いを意識してもらうために、〈R〉の方は、ひらがなで〈える〉にすることにします。

 以上は発音上の差異の問題なのですが、実は、アルファべ二十六文字の中で最も間違い易いのは何かと言うと、それは、これらです」


 G;J


「〈G〉は〈ジェ〉、〈J〉は〈ジ〉になります。間違い易さの原因は、英語とは発音が逆になっているからで、どうしても、僕たちは、中学・高校で、英語を第一外国語として学んでいるので、結果、こんがらかってしまう分けなのです。

 さて、それでは、今から少し時間をあげます。何度も繰り返し練習してみてください」

 隠井は、受講生に練習の時間を与え、その間に、次の展開の準備を整えた。


「さて、この練習時間を使って、君たちの中には早くも、フランス語のアルファべの読み方をマスターしてしまった方もいるかもしれません。でも、それって〈A〉から〈Z〉までを順番通りに覚えたことも理由ではないでしょうか? つまりここで問題にしたいのは、一文字一文字がバラバラに提示された場合に、それらをスムースに読めるかどうかって話なのです。

 そこで、アルファべ練習の第二段階として、ここにフランス語の略記号を中心としたアルファべの連続を幾つか提示します」

 そして隠井はスライドをめくった。


 1:BD

 2:RATP

 3:RER

 4:SNCF

 5:TGV

 6:UE

 7:QI

 8:JK

 

「少し時間をあげます。これらを読める準備をしてください。講義の終盤で、読み方と略記号の意味も説明してゆきますね」


 講義の残り時間を確認してから、隠井は説明を始めた。

「さて、解説を始めましょうか。

 まず、〈1〉の〈BD〉は〈ベ・デ〉です。〈BD〉とは何かというと、これはフランスの漫画のことです。現在、フランスでも日本のマンガが大人気で、日本の漫画は、そのまま〈manga〉で通じるのですが、日本の漫画が入ってくる遥か以前から、フランスにはフランスの漫画が存在していて、それを、〈バンデシネ〉と言って、その略記号が〈BD〉なのです。

 次の〈2〉から〈5〉は、実は、交通関係の略記号です。君たちが近い将来フランスに旅行に行った際には、フランスの交通機関を使って移動する可能性もあるので、フランスを〈ボワイヤージぅ〉したいと考えている人は、しっかり覚えてくださいね。

 さて、〈2〉の〈RATP〉は、〈える・ア・テ・ペ〉と読みます。これには、〈パリ交通公団〉という訳語が当てられているのですが、ざっくり日本の交通と対応させると、東京メトロに相当するとみなせば、分かり易いかもしれません。要するに、パリの地下鉄の運営団体です。

 そして、〈3〉の〈RER〉は、〈える・う・える〉と読みます。発音という点ではこれが最も難しいかな。さて、これには、〈高速郊外鉄道〉という訳語が当てられているのですが、これでは、ピンとこないですよね。完全に対応するわけではないのですが、東京にも、地下鉄って東京メトロと都営線がありますよね、イメージでは、〈RER〉は都営線に対応するとみなせば、分かり易いかもしれません。

 次の〈4〉の〈SNCF〉は〈エス・エヌ・セ・エフ〉、これは〈フランス国営鉄道〉のことです。たとえば、東京から近距離・長距離に移動する際に利用するので、日本のJRに相当します。もっとも、今の日本では民営化してしまっていて、国営ではないのですが。

 次の〈5〉の〈TGV〉は〈テ・ジェ・ヴェ〉です。これは、フランスの新幹線のことです。フランスを旅行した際に、パリ以外の都市に行く場合には利用するので覚えておいてくださいね。

 さて、〈6〉の〈UE〉は〈ユ・う〉です。これ、何を意味しているか、分かるかな? ヒントです。英語では、形容詞で名詞を修飾する場合、〈形容詞 名詞〉の語順になるのですが、フランス語では、〈名詞 形容詞〉の順番です。ということは、フランス語の略記号の中には、語順をひっくり返せば、君たちが知っている略記号が見えてくる可能性があるって話です」

「あっ! 〈イー・ユー〉だ」

 思わず、受講生の一人が声をあげてしまった。

「まあ、その通りなんだけど。分かっても、指名してから答えてね。じゃ、今、思わず答えてしまった。杉田くん。〈7〉の〈QI〉を発音して、意味も推測してみて。さっきの〈6〉と同じケースです」

「はい。……えっと、〈キュ・イ〉で、ひっくり返せばいいんだから、あっ、なるほどっ! これは〈アイ・キュー〉、知能指数ですね」

「その通り。じゃ、ラスト〈8〉の〈JK〉いきましょうか。これのフランス語読みは、〈ジ・カ〉です。でも、これは別にフランス語の略記号じゃないのです。

 君たちの何人かは、数ヶ月前まで、こういった存在でしたよね」

「「「「「〈ジェイ・ケー〉のことかよっ!」」」」」

 教室の各所から声が上がった。

「そう、英語読みしたら〈ジェイ・ケー〉、つまるところ、フランス人は日本の女子高生を〈ジ・カ〉って呼ぶ可能性があるって話です。ところで、この〈JK〉、女子高生以外の意味もあり得ます」

「先生、いったい何ですか?」

「それは、ですね」

 隠井迅は少し間を置いた。

「君たちのフランス語の文法を担当している、わたくしのイニシャルが〈JK〉なのです。

 おっさんなのに〈JK〉で、可愛くなくってゴメンね」


 受講生の反応がいかなるものであったのか、それは、読者の皆さんの想像に委ねることにしたい。



 


 

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