第04話 〈旅の日〉に〈ボン・ボワイヤージぅ〉

「ボンジュ〜ル。みなさん、ご無沙汰しています、隠井です。とうとう、ゴールデンウィークが開けてしまいましたね。


 さて、四月の講義では、日本に入りこんでいる外来語の中には、英語だけではなく、実は、数多くの英語以外の欧米言語もまた認められる、といったお話をしました。そして、そうした言語の中には、当然、フランス語も含まれているわけです。つまり、少し意識的になって、周りを見渡してみれば、思った以上に、フランス語が巷に溢れていることに気付くことができるのです。そうしたフランス語に対する意識に敏感になってもらうために、日本に入っているフランス語を見つけてくる、という黄金週間の課題を出しました。題して、『街で見かけたフランス語』です。


 事前に、イントロとして、外来語として日本語化しているフランス語の幾つかを取り上げたのですが、それらの解説を通して気が付いたことは、外来語というものは、〈日本〉というフィルターを通った際に、何らかの変化を迎えている場合がある、ということです。

 その変化の様態をパターン化しておきましょう」

 そう言って隠井は、プレゼン用のアプリを起ち上げて、スライドを提示した。


   発音;意味

 1: 〇;〇:元の単語と発音も意味も同じもの

 2: 〇;×:元の単語と発音は同じだが、意味が変化したもの

 3: ×;〇:元の単語と発音は変化したが、意味は同じもの

 4: ×;×:元の単語と発音も意味も変化してしまったもの


「ポイントは、〈発音〉と〈意味〉で、その在り方によって、四つの型に分かれます。簡単に言うと、由来となったフランス語と同じか違うかってことです。

 このうち、「1」にカテゴライズできるものは、『へ~、これも実はフランス語由来だったんか』ってトリビア的な感想を抱く程度の話かもしれません。

 これに対して、「2」から「4」における、〈日本〉というフィルターを通った結果、何らかの変化が起こっているケースは面白い事例も多いですね。

 このうち、「3」と「4」の発音の場合は、日本語としての発音のしずらさや、英語読みやローマ字読みなど、既に我々が知っている、獲得言語の影響のせいで、本来のフランス語の音から離れてしまった結果ではないか、と推測されます。

 特に、日本語に存在しない音などは、当然、日本人には発音が難しいわけで、そういった場合には、ある程度の変化は仕方がないようにも思われます。だがしかし、ろくすっぽ調べもせずに、無知ゆえに適当に読んでしまうのは、恥ずかしいことです。そういった事態に陥らないようにするために、ここでフランス語におけるスペルの読み方ルールを確認し、理解してゆきましょう」

 そう言って、隠井は、スライドをめくった。


 ay;oy


「今回お伝えしたいのは、スペルが〈母音+y+母音〉の読み方の注意です。フランス語では、英語読みの〈y(ワイ)〉は、子音字ではなく母音字として扱います。〈y〉をフランス語では、〈イグレック〉と呼ぶのですが、これは、〈グレック〉、すなわち、〈ギリシャ語のi(イ)〉という意味だからです。

 ローマ字読みに慣れ親しんだ僕たち日本人は、〈y+母音字〉のスペルを見ると、どうしても、ヤ行で読みたくなってしまうのですが、〈ya〉〈yu〉〈yo〉は、ヤ行で〈ヤ〉〈ユ〉〈ヨ〉とは読まないのです。問題は、それではどのように読むかという話です」

 そう言った後に、隠井はワンクリックした。


 ay; oy

[aⅱ][oⅱ]

[エイ][ワイ]


「母音の次に〈y〉が来ていた場合、これを、フランス語の読み方ルールに則って読むためには、〈y〉を〈ii〉に分割させてみれば良いのです。つまり、〈ワイ〉を〈アイ・アイ〉にしてください。

 このように分けた上で、括弧の中に着目してください。フランス語では、〈ai〉は〈エ〉と発音するので、〈aii〉は〈エイ〉、〈oi〉はワと発音するので、〈oii〉は〈ワイ〉のように読むことになります。

 このルールをを踏まえて、次のスペルを読んでみましょう」


 aya; oya

[aⅱa][oⅱa]

[エイア][ワイア]


「まず、〈aya〉のスペルは、ローマ字読みしか知らないと〈アヤ〉と読んでしまいます。しかし、これは、フランス語では〈エイア〉と読みます。

 そして、〈oya〉は、ローマ字読みでは〈オヤ〉になりますが、フランス語では〈ワイア〉になります。

 これを踏まえた上で、次の単語を見てください。

 実は、今回のレポートで、何人かの受講生が、次に示す単語を使って、今回の『街でみかけたフランス語』のレポートを書いてくれました。複数いたということは、それだけ、その単語が巷に溢れているということなのでしょう」

 隠井は、そのフランス語の単語を見せた。


 voyage


「それでは、今の説明に従って、この単語をフランス語読みしてください。誰かに読んでもらいましょうか。そうですね。出席番号十六番の、オイカワさん、お願いします。読む準備ができて、気持ちが整ったらお願いします」

「……………………えぇぇぇ~~~~っと……、ボヤージュかな?」

 及川は、自信なさげに、後半がほとんど聞こえないような小さな声、かつ疑問調で応じた。

「ちょっと待って、〈ボヤージュ〉はローマ字読みでしょ。もう一回説明するね」

 そう言って、隠井は、〈y〉を〈アイ・アイ〉に分解してみせた。


 voyage

[voⅱa]


「再確認です。フランス語では〈oi〉は〈ワ〉です。それでは、オイカワさん、再チャレンジ、どうぞ」

「ボワイアージェ」

「おしいっ! 単語の最後の〈e〉は〈ぅ〉という音を軽く添えるだけなので、〈ボワイアージぅ〉になります。

 とまれ、〈母音+y+母音〉のスペルは、フランス語の読み方ルールを知らないと、ローマ字読みしてヤ行で読んでしまい、実際、店名やJポップの曲のタイトルには、〈voyage〉ってものが沢山見止められるのですが、正しくフランス語読みができている事例はほとんどないのが実情です。これって、まさに〈無知の恥〉の適例でしょう。

 僕は、勝手に〈ボヤージュ撲滅委員会〉を設立しているので、この講義を受けた皆さんは、〈voyage〉は〈ボワイアージぅ〉あるいは〈ボワイヤージぅ〉だという正しい読み方を拡散して、〈ボヤージュ〉っていう間違った読み方の撲滅に協力してくださいね」

 隠井は、少し興奮しながら、今回のスペルの読み方ルールの説明を終えたのだった。


「ところで、〈五月十六日〉って何の日か御存じですか?」

 最前列に座っていた受講生が、小さく手を挙げた。

「はい、伊達君どうぞ」

「〈旅の日〉です」

「そのとおおおぉぉぉ~~~り」

 隠井は、肘を直角に曲げて、腕を僅かに上下させた。

 質問に応じた伊達という受講生は、日本史、特に江戸時代の歴史に興味があり、進級したら日本史コースに進みたいと自己紹介の際に述べたと記憶している。だから、知っていたのかもしれない。


「五月十六日は〈旅の日〉なのですが、何故にそうなっているのかと言うと、この五月十六日、ちなみに、旧暦ではなく、現代において用いられている新暦に当てはめた場合、一六八九年、元禄二年の五月十六日、ちなみに、旧暦では三月二十七日なのですが、まさしくこの日に、松尾芭蕉が、弟子の河合曾良と一緒に、奥州や北陸といった、下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前を巡って大垣に至った、いわゆる、『おくのほそ道』の中で叙述されている旅に出立した、まさにその出発日こそが、新暦の五月十六日だったのです。

 ちなみに、〈おく〉と〈ほそみち〉を漢字に変換し、『奥の細道』にしている本や記事も数多く見かけるのですが、今の中学の国語の教科書では、〈道〉以外はひらがなで表記されています。もちろん、音という点で考えると、漢字で『奥の細道』と書いても誤りではないように思えるかもしれませんが、『おくのほそ道』と、〈おくのほそ〉をひらがなで表記するのが正しいとされていることを知っておいてください。

 では、何故に、漢字ではないかというと、『おくのほそ道』は四つの原本が残っているのですが、そのうちの一つ〈西村本〉の題簽(だいせん)、すなわち、書物の表紙に貼った紙や布に書かれた本の題名が、『おくのほそ道』と、ひらがなになっており、これが、芭蕉自身の自筆とされているからなのです。つまり、芭蕉自身が、漢字ではなく、ひらがなで表記していることから、〈おくのほそ〉をひらがなで表記するのが正式とされ、この原題を尊重して、中学の国語の教科書にも採用されているわけなのです。

 どっちでも意味が通じるならばいいじゃんって思う人もいるかもしれませんが、漢字なのか、ひらがななのか、カタカナなのか、これが本の題名などの場合は、その使い分けに、作者の拘りが認められるわけで、その違いは軽視してはいけない点のように思われます。歌のタイトルがアルファベットの場合にも、大文字・小文字を、作り手は敢えて使い分けている分けなのですから、そのような表記法の相違にも敏感になってもらいたいものです。


 とまれ、〈五月十六日〉は、芭蕉が『おくのほそ道』に出立した日という理由で、〈旅の日〉なわけなのです。

 そして、今回の講義の中で扱った〈voyage(ボワイヤージュ)〉が〈旅〉を意味するフランス語であることも合わせて覚えておいてくださいね」

 そう言って隠井は、ホワイトボードに、フランス語のスペルを綴った。


 Bon voyage !


「もしかしたら、いつか、五月十六日の〈旅の日〉に旅行に出かける受講生もいるかもしれないので、旅ゆく人に贈る言葉で、今回の講義を終えることにいたしましょう。

 こういった挨拶表現ってパターン化されていて、実に簡単です。名詞の前に、英語の〈good〉に相当する〈Bon(ボン)〉を付けるだけです。

 直訳すると〈良い旅を!〉になるのですが、これは、〈いい日、旅立ち〉って敢えて意訳したいものです。

 それでは、今回の講義を締めましょうか、『せ~の』で発音しましょう」

 隠井は、わずかに息を吸い込んだ。


「せ~の」

「「「「「「「「「「「「「「ボン・ボワイヤージぅ」」」」」」」」」」」」」」

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