第00講後半 春の長雨、かくて季節は巡りゆく

 三月の三十日、三十一日という二日に渡る二十度超えの最高気温を迎えた後、四月一日になるや、東京の気温は急降下した。

 天候も、三日の日曜日から四日の月曜日にかけての雨、加えて、その長雨に伴い、気温もさらに下がり、まるで、時が二月に巻き戻ってしまったかのように、四日と五日の最高気温は十度を下回ってしまった。


 こういった四月の長雨や著しい寒暖差って、毎年の事だよね?


 感覚的にこのように感じた隠井は、WEBで天候の推移を記録しているサイトを参照してみた。

 そのページによると、令和三年の東京都の四月の一日から四日にかけての最高気温は二〇度を超え、天候も好天続きだったのだが、その後、気候は一変し、五日から六日にかけて雨や曇りが続き、そして六日には、最高気温が十五度、最低気温は六度となっていた事が分かった。

 なるほど、今年ほどの極端な下落ではなかったものの、令和三年の四月の初めの長雨と気温の急降下が、データとして確認できた。


 キーボードを叩く手を止め、物思いに耽りながら、図書館の窓から雨に打たれる桜の木を眺めていた、まさにこの瞬間、隠井の脳裏に、次の和歌が思い浮かんだ。


「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」


 これは、小野小町が詠った和歌である。


 隠井は、ふと思い立って、三階の日本文学のコーナーに足を運び、和歌関連の本を何冊か見繕って、閲覧席で流し読みしてみた。


 小野小町と言えば、紀貫之が代表的な撰者となっている『古今和歌集』の「序文」で言及されている〈六歌仙〉、あるいは、藤原公任(きんとう)の『三十六人撰』に載っている〈三十六歌仙〉、またあるいは、鎌倉時代中期に成立した『女房三十六人歌合』の〈女房三十六歌仙〉の一人にも数えられている歌人である。

 件の「花の色は~」は、そもそも、平安時代の『古今和歌集』に収められている和歌なのだが、我々にとっては、『小倉百人一首』の「第九首」としてこそ、馴染み深い和歌であるかもしれない。


 『古今和歌集』(略称『古今集』)は、醍醐天皇(在位:八九七~九三〇年)の〈勅命〉によって、〈古〉い時代から、その当時の〈今〉に至る和歌の中から、『万葉集』に入っていない歌を〈撰び〉、編纂され、醍醐天皇に奏上されたもので、歴史上、最初に編纂された勅撰和歌集である。

 鎌倉時代の、いわゆる「定家本」では、『古今和歌集』は全二十巻、総数千百十一首となっているのだが、小野小町の件の短歌は「春歌」の中に入っている。

 ちなみに、「定家本」というのは、平安時代末期から鎌倉時代の初期の人、藤原定家(ふじわら・ていか)が、写本した『古今和歌集』の事である。


 藤原定家(一一六二~一二四一年)といえば、『古今和歌集』の「定家本」のみならず、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』という二つの勅撰和歌集の撰者としても、日本文学史に名を残しているのだが、また、『小倉百人一首』の撰者としても著名であろう。


 今現在、我々が『小倉百人一首』と呼んでいる物は、藤原定家が、自分の好みの和歌を選んだ〈秀歌撰〉である百首の和歌で、正確な成立年代は詳かではないのだが、十三世紀前半に成立したものであるらしい。

 後の世において、この百人一首に〈小倉〉という語句が冠されたのは、以下のような理由からである。


 鎌倉幕府の御家人である宇都宮頼綱(うつのみや・よりつな)が、京都の嵯峨野に建造した別荘、〈小倉山荘〉の襖の装飾のために、定家に色紙の作成を依頼した。すると、定家は、飛鳥時代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、年代順に、百人の歌人の和歌を一人一首ずつ選び、それらを百枚の色紙に書いたのだそうだ。

 定家が色紙に和歌を書いた頃には、この百人一首に対して、決まった呼び名はなかったらしいのだが、後世、藤原定家が、小倉山で、これらの百首を編纂した事から、定家が書いた色紙が「小倉色紙」、定家編纂の百首の和歌は『小倉百人一首』と呼ばれるようになり、これが、我々が知っている〈かるた〉の元になったと考えられている、との事であった。

 ちなみに、藤原定家直筆とされている「小倉色紙」は、残念ながら、江戸時代の時点で既に三十枚程度しか残っていなかったそうで、現存している色紙は推して知るべしであろう。


 とまれかくまれ、和歌を書いた色紙を襖に貼る、という発想は実に興味深い。


 さてさて、『小倉百人一首』は、第一首から、時代順に並べられているのだが、件の小野小町の「花の色は~」が第九首に置かれている。ということは、小野小町は、『百人一首』の中でも古い時代の歌人という事になるだろう。

 ちょっと調べてみたところ、小野小町は、生没年は不詳らしいのだが、平安時代初期、九世紀の人であるようだ。


 今では、もしかしたら少し古めかしい表現であるかもしれないが、界隈で評判の美しい娘のことを、「何々小町(こまち)」と言い表わすのは、この平安時代の小野小町が、美女であったという伝説に由来している。

 その彼女が詠んだのが、『百人一首』の「第九首」、「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」なのである。


 この和歌の解説を読んでみると、この小野小町の「花の色は〜」における「花」とは桜のことで、ここでは、小野小町の最盛期の美しさが、満開の桜の花に喩えられているのだが、その桜の花のような小野小町の美貌も、年齢を重ねるに従って、桜の花が色褪せるように、ただ虚しく衰えてゆく、そのような、詠み手自身の老いのはかなさを、桜の花の盛り短き美しさに重ねた和歌だと解釈されているそうだ。


 小野小町の美女として名高さ故に、彼女の生涯と重ねた解釈には、たしかに首肯できるものがある。

 そして同時に、春の一時期、今の暦で言うところの四月の初めの情景を端的に描いた歌としても、「花の色は〜」は興味深い和歌であるように思われる。


 桜の花は、その開花から散り始めまで約二週間で、さらに、美しき桜の花の最盛期は極めて短く、満開から一週間程度で花は散ってゆく。

 つまり、自分の活動圏内の〈見頃〉を逸してしまった場合、開花が遅い、どこかの地方にわざわざ観に行くのでなければ、美しく咲き誇る桜を愛でるためには、巡りゆく時の流れを、あと一年待たなければならなくなってしまう。

 そしてさらに、四月初めの、気温の下落や、降り続く〈長雨(ながめ)〉のせいで、虚しき散華という変化は突然訪れる。


 窓辺から外を眺め、「もの思いに耽っていた」隠井は、新学期の講義準備に勤しんでいるうちに、むなしく時が過ぎ去ってゆき、桜の花の見頃の時期を今年も逸してしまったな、と考えていた。

 外では、風のせいで桜の花びらは宙を舞い、やがて、それらは雨水が染み込んだ桜色の絨毯となって、キャンパスのスロープに敷き詰められる。一方、風雨のせいで散華した桜に木の枝に緑色が見え出している。


 隠井は思った。

 自分が、「花の色は〜」の和歌を小野小町と重ねる解釈ではなく、季節の歌として感じ入っているのは、小野小町の時代から千年を経た今なお、同じように季節は巡っている、という点なのだ。

 そして、窓の外で宙を舞う薄紅色の花びらや、地面に敷き詰められる桜色の絨毯が、〈新学期〉の始まるを予告する情景になっているように思われる。


 かくして、四月五日――

 ついに、三年ぶりの〈対面〉講義の幕が上がるのだ。


〈参考資料〉

〈WEB〉

「東京の過去の天気、2021年4月」;「2022年4月」、『goo天気』、二〇二二年四月四日閲覧。

『百人一首』、井上宗雄(編集・執筆)、『新潮古典文学アルバム』11、東京:新潮社、一九九〇年、二九頁。

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