第30講 <学生>にとっての<不易流行>

「さて、前回の講義においては、滋賀県・大津市の膳所に位置している<義仲寺>について取り上げました。この寺は、すごく細い道に面しています。実は、この道は、そもそもの東海道で、この旧き海道に面した寺には、鎌倉時代末期の武人、木曽義仲と、その愛妾である巴御前、そして、江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉の墓があります。

 その流れで、今回の講義では、松尾芭蕉について取り上げることにします。


 松尾芭蕉(一六四四~一六九四年)は、『おくのほそ道』で知られた、江戸時代前期の俳諧師なのですが、<おくの細道>以前にも何度も旅に出ています。それを、次のスライドにまとめておきました」


 一六八四~一六八五年:『野ざらし紀行』:東海道を西に上る

  <伊賀>;大和;吉野;山城;<美濃>:尾張;甲斐;

  <伊賀>;木曽;甲斐;江戸に戻る

 

 一六八七年前半:『鹿島詣』:今の茨城県・鹿嶋市の鹿島神宮への旅

 

 一六八七年後半:『笈の小文』:再び、東海道を西に上る

  鳴海;熱田;伊良子崎;名古屋;<伊賀>;伊勢神宮;

  <伊賀>;伊勢;吉野;大和;紀伊;大阪;須磨;明石:京都


 『更科紀行』:京都から江戸への戻り

  <大津>;<岐阜>;名古屋;鳴海;信州更科の姥捨山;善光寺;江戸に戻る


「さて、重要な地には、<>(山括弧)を付けておきました。

 <伊賀>は松尾芭蕉の故郷で、<大津>は義仲寺が位置している膳所がある地、そして<美濃>は、今の岐阜県です。

 <美濃>に山括弧をつけたのは、芭蕉が<野ざらし紀行>の旅に出たのは、美濃国・大垣の俳人・木因に招かれたことが、そのきっかけだったからです。というのも、大垣とは、芭蕉によって主導された芭蕉風の俳諧、いわゆる、<蕉風(しょうふう)>が、江戸以外の地で初めて花開いた地で、ここには、多くの芭蕉の門人たちがいて、それゆえに、芭蕉にとっては特別な地だったのです。

 受講生のみなさん、<大垣>という地を心にメモっておいてください。

 このように、ざっと見ただけなのですが、四十代の芭蕉は、江戸にはほとんど居らず、絶えず旅をしているという印象を受けます。


 そして、ついに――

 芭蕉は、門人の河合曾良(かわい・そら)を伴って、旧暦の元禄二(一六八九)年の三月二十七日に旅に出ます。

 この時の旅は、芭蕉にとって未知の地である日本の北、東北や北陸を目指したものでした。

 芭蕉は、江戸の深川を出発して、それから約半年間、百五十日をかけて、奥州や北陸を巡りました。全行程の、その踏破距離は、約六百里、メートル換算で、二千四百キロメートルです。そして、旧暦の八月二十一日に、芭蕉は、この旅の最終目的地である大垣に到着したのでした。その後、伊勢、大阪、それから、再び大垣に立ち寄って、一六九一(元禄四)年に江戸に戻ったのでした。

 この旅の記録が、『おくのほそ道』であり、このうち、武蔵から下野、陸奥、出羽、越後、越中、加賀、越前、近江を通過して、美濃・大垣に到着し、この大垣を旅立つ旧暦の九月六日までが、『おくのほそ道』には記されています。


 <おくのほそ道>の旅は、芭蕉の生涯の中でも、距離的に最も長い旅になったのですが、この旅の途中で、門人の曾良は体調を崩し、旅から離脱せざるを得なくなり、その結果、芭蕉は、途中から独りで旅をすることになったのでした。旅に出る時、傘の内側に、<同行二人>と書いていたそうなのですが、曾良との別れの後、芭蕉は、この文言を消してしまったそうです。

 とまれ、独りになった芭蕉にとって、<おくのほそ道>は、体力的にも、そして精神的にも厳しい旅になった事は想像に難くありません。

 今回の長く辛い芭蕉の<おくのほそ道>の目的の一つとは、<歌枕>の地、すなわち、これまでの和歌の歴史の中で詠まれてきた名所・旧跡を、実際に巡ることでした。具体的に言うと、その代表は西行です。

 というのも、芭蕉が、<おくの細道>の旅に出た一六八九年とは、芭蕉が崇拝する、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士にして歌人である、西行の五百回忌に当たっていたからです。

 今風に言うと、芭蕉の目的の一つとは、西行の<聖地巡礼>だったのです。

 そして、もう一つの芭蕉の旅の目的は、俳諧を通じて知り合った旧友との再会だったのです。

 実は、芭蕉は、旅に出る前から、旅の終着地を大垣にすると決めていたそうです。

 ここで思い出してもらいたいのは、美濃の大垣とは、江戸以外で初めて<蕉風>が開花した地だったということです。したがって、大垣には、芭蕉の旧友や弟子が数多く在住していて、つまり、<おくのほそ道>とは、大垣での旧友との再会のための旅だったのです。

 それゆえに、今の大垣市には、<奥の細道むすびの地記念館>という博物館があるのです。

 わたくしも何度かこの博物館を訪れたことがあるのですが、館内にはミニシアターがあって、芭蕉の生涯を3Dの動画で観ることができます。その観覧の際に、『不易流行』という文字が浮かび上がって、わたくしの目の前に飛び込んできました。

 この『不易流行』とは、芭蕉が、<おくのほそ道>での旅を通して、その認識を深めていった概念です。

 <おくのほそ道>の後の、元禄二年の冬、<蕉門十哲>の一人、向井去来などの門人たちに対して、芭蕉は、この概念を説き始めたそうです。そして、去来は、松尾芭蕉から伝え聞いたことをまとめた俳諧論書『去来抄』の中で、次のように述べています。引用しておきましょう」


 芭蕉の俳諧には、千歳不易の句と一時流行の句とがある。先師芭蕉は、これをこのように二つにわけて教えられたが、その根本は一つのものである。

 『不易』を心得なければ、俳諧の基本となるものが確立しないし、『流行』を心得なければ、俳風が時とともに新しくならない。『不易』というものは新しい時代においてもすぐれており、後代になってもやはりすばらしいので、これを『千歳不易』という。『流行』というのは、その時その時に応じて俳風が変化することであり、昨日の俳風が今日はよくなくなり、今日の俳風が明日には通用しなくなることがあるので、これを『一時流行』という。つまり、流行とは一時的にはやることをいうのである。


「この引用を、もっとかみ砕いて考えてみるのならば、<不易>とは変わらないもの、<流行>とは変化するものであるように思われます。そして、<不易>だけでも、<流行>だけでも不十分なのです。つまり、<不易>を目指しつつも、それと同時に、<流行>をも追求し、そのどちらも兼ね備えていることこそが、つまり、<不易流行>なのです。こう言ってよいのならば、<不易流行>とは、古いもの、変わらないものと、新しいもの、変わりゆくものが結び付いていることなのです。さらに別の言い方をするのならば、<温故知新>と言い換えることもできるかもしれません。

 それでは、今日の講義内容の参考資料を挙げておきましょう」

 隠井は、参考資料をスライドで提示した。


<参考文献>

<書籍>

  向井去来「去来抄」,『去来抄/三冊子/旅寝論』所収,

                    東京:岩波書店,一九九一年.

 「不易流行とは何か」;「『不易』の句、『流行』の句」,

 堀切実『芭蕉たちの俳句談義』,東京:三省堂,二〇一一年.


「さて、およそ一年間に渡って展開してきた、二〇二〇年、令和二年度のわたくしの文化史の講義もこれで終わりです。

 で、最後に、少し語らせてください。<最後の講義>で説法めいたことを述べるのは教師の特権なので、あと少しだけ、お付き合いください。


 わたくしが、ここまでお話ししてきたのは、<文化>という広大過ぎる領域の、ほんとうの氷山の一角に過ぎません。

 話した内容の中には、君たちがすでに知っていたこと、知っている内容だったけれど更に深く知ることができたもの、あるいは、全く知らなかった事柄など、個々様々だと思います。その内容のどれか一つでもよいから、それが、みなさんの知的好奇心の琴線に触れることができたのならば、これほど嬉しいことはありません。

 これからの生活の中で、受講生のみなさんは、ネットや、新聞・雑誌、ラジオ・テレビといった、何らかの媒体を通して、あるいは、図書館や、美術館・博物館を実際に訪れて、様々な新たなる情報や知識を蓄積してゆくことになる、と思います。こういった新しい情報・知識とは、今日話した内容に当てはめてみると、不易流行の<流行>に相当するように思われます。

 受講生の皆さんは、これからも、色々な事柄を知ってゆくことになる、と思いますが、知識は受動的に享受するだけではなく、自ら積極的に、どんどん知っていっていただきたい、とわたくしは考えています。そういった積極性こそが、自らの意志で学ぶ者たる<学生>のあるべき姿ではないでしょうか。学ぶ意志さえあれば、<学生>です。大学生であるか、社会人であるかは問題ではありません。

 とまれかくまれ、<学生>たる皆さんには、情報・知識という<流行>を絶えず追い続けていただきたい。この知的習慣を身に付けることができれば、常に新たなことを<知る>喜びを味わい続けられる、とわたくしは信じています。

 しかし、です。

 情報や知識とは、あくまでも思考するための材料です。だから、これを料理するために、思考の根幹となるような不動にして不変の、自分独自の絶対的なものの見方・考え方を、<流行>を追ってゆく過程の中で見出していただきたい、と思っています。これは、不易流行の<不易>に相当しますね。

 そうして、思考の根幹となる背骨を骨太なものにするためにも、たくさん知って、たくさん思考してください。それが、<学生>たるみなさんがすべき知的活動における<不易流行>ではないでしょうか。

 <学生>たるみなさんの今後の知的<不易流行>の充実を願いつつ、ここで、今年度の講義を終えることにいたします。


 みなさん、ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました」



  『ドクター・ライジーンの文化史講義の実況中継(令和二度版)』 <了>

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