第29講 旧海道と背中合わせのお寺かな

「みなさん、こんにちは。今年度の講義も残すところ、今回を含めて、あと二回になりました。年明けの<駅伝>のテーマから語ってきた<海道(かいどう)>シリーズも、今日で第四回目になります。


 さて、七〇一年の大宝律令にまで、その起源を遡ることができる古代・中世の<五畿七道>の一つであった<東海道>は、近世において、徳川幕府が整備した、いわゆる、<五街道>においても、そのうちの一本であり、かくして、日本が明治維新を迎えるまでの千年以上もの間、<東海道>は、日本の主要な幹線路であり続けてきました。

 しかし、です。

 古代・中世・近世において、人々が<膝栗毛>して、主として徒歩で往来していた旧き道は、明治維新後、主要な移動経路としての地位を、鉄道や高速道路に譲ることになります。その結果、徒歩での移動路として利用されていた古い時代の道は、<旧街道>と呼ばれるようになり、実用という点においては、その利用頻度が下がってゆきます。だが、我々は、その古さゆえにかえってますます、懐古主義をもってして、旧き道に眼差しを向けている次第なのです。

 この<海道>シリーズの第一回目でみた、歴史上最初の駅伝、京都・東京間の駅伝が、新聞の中で、<東海道五十三次駅伝>という名で呼ばれていたのも、ある意味、その時すでに旧街道となっていた<東海道>に対する、大正時代の日本人の懐古趣味のあらわれの一つ、と言えるかもしれません。

 しかし、懐古趣味の対象になったからといって、旧街道となった交通路が、完全に利用されなくなったわけではないのです。


 実は、旧街道の多くは、近代以降、<明治国道>や<大正国道>といった、何度かの道路法の改定を経て、太平洋戦争後の、いわゆる<昭和国道>は、今我々が利用している、国道道路網の基礎になっているのです。

 <昭和国道>は、周知のように、番号制を採っているのですが、その路線番号の振り分け方、いわゆる、<採番>は、原則、北から順番に振られていったそうです。その一方で、日本の骨格を形づけるような重要路線に関しては、優先的に早い番号が割り振られました。ここに、一号から三号までを、まとめておきましょう」


 国道一号;東京都・中央区・日本橋~大阪府・大阪市・北区

 国道二号:大阪府・大阪市・北区~福岡県・北九州市・門司区

 国道三号:福岡県・北九州市・門司区~熊本県・熊本市~鹿児島県・鹿児島市


「つまり、国道一号・二号・三号は、東京の日本橋を起点にし、鹿児島にまで延びている路線なのです。具体的に言うと、国道三号は、九州の中部を南北に貫いていて、国道二号は、<五機七道>の旧・山陽道をほぼ踏襲し、そして、国道一号が、<五機七道>と<五街道>の旧・東海道にほぼ沿っているのです。ここでは、旧・東海道である<国道一号>に照明をあてることにしましょう」

 隠井は地図を見せた後で、以下のように、東海道を三分割した。


 A:東京・中央区・日本橋~神奈川県~静岡県~愛知県

 B:(愛知県)~三重県~滋賀県

     愛知県・名古屋市・熱田区~愛知県・海部郡・弥富町~

     三重県・桑名市~三重県・四日市市~三重県・鈴鹿市~

     三重県・亀山市~三重県・鈴鹿郡・関町~

     滋賀県・甲賀郡・水口町~滋賀県・栗太郡・東町~滋賀県・草津市

 C:(滋賀県・草津市)~京都府~大阪・大阪市・北区


「旧・東海道を踏襲した国道一号を、このようにA・B・Cの三つに分けてみました。これで、あれっと、思ってくれた人がいたら大成功です。

 Aの東京都から愛知県まで、そして、Cの滋賀県から~大阪府までは、鉄道の東海道線と、ほぼ同じ経路です。しかし、Bの経路は、あえて細かく地名を示したのですが、国道一号線と東海道線と全く異なるものになっています。

 つまり、鉄道の東海道線は、Aの東京~愛知県の熱田間と、Cの草津~京都の間は、旧街道の東海道とほぼ同一の経路になっているのですが、Bの区間は、旧東海道である国道一号線が三重県を経由しているのに対して、鉄道の東海道線は岐阜県を通ってゆくのです。

 旧東海道と東海道線が完全な同じ道筋だという勘違いって、案外している人も多いようなので、この点、注意しておいてくださいね。

 さて、東海道本線は、東京から神戸までの間を走っている路線なのですが、この区間内でも、滋賀県の米原駅から京都駅までの区間は、<琵琶湖線>と呼ばれています。ここでちょっと、琵琶湖線の草津から京都までの駅を見てゆきましょう」


 草津;南草津;瀬田;石山;膳所;大津;山科;京都


「戯れに、大津駅のひとつ前の駅で、地図アプリを起ち上げたタブレットを片手に、下車してみましょう。ちなみに、これ、<膳所(ぜぜ)>と読みます。草津から膳所までの地図を見てみると、国道一号線と東海道本線が、ほぼ並行して走っていることが分かります。

 JR膳所駅の南口には、大きな駐車場が広がっているのですが、この広々とした駐車場は、交通量が著しい国道に隣接しています。この自動車が激しく行き交う数車線の幅広の道路こそが、実は、<国道一号線>なのです。

 この国道沿いの歩道を進んでいた際に、『1』という青地に白抜きの標識を目にした時には、この道を東に進んでゆけば、東京に徒歩で戻れるのか、といった妄想もしてみたのですが、さすがに、五百キロメートル以上を歩こうとは思いませんでした。 

 わたくしが、かつて、このJR膳所駅で降りたことには理由がありました。国道一号線が走っている南口方面とは反対の北口方面に、行ってみたい地があったのです。こっち、JR北口のすぐ近くには、京阪電車の膳所駅もあります。そして、ここから徒歩で十分もかからないくらいの、閑静な住宅街の真っ只中に、<ぎちゅうじ>というお寺があります。ここが、わたくしの目的地でした。

 <ぎちゅうじ>という音ではピンとこないかもしれませんね。漢字で書くと分かるかな?」

 隠井はホワイトボードに、次のような漢字を書いた。


 義仲寺


「これで、ピンときた人もいるかな、この<義仲寺>は、その名を訓読みすれば、『よしなかでら』、これで明らかですよね。そう、ここは、木曽義仲の墓がある寺で、さらにここには、木曽義仲の愛妾であった巴(ともえ)御前の墓もあります。

 木曽義仲と巴御前は、源平合戦を題材にした小説、ドラマ、漫画、あるいは、ゲームにおいて必ず出てくる人物ですよね。

 ざっくり言うと、木曽義仲は、都から平氏を追い払ったのに、その後、同じ源氏の源範頼と義経軍に討たれてしまった人物です。その義仲が討たれたのは、粟津(あわづ)という地なのですが、この粟津も、今の滋賀県・大津市に地名として残っています。粟津から義仲寺までは約三キロ、まあ、歩ける距離です。とまれ、粟津で討ち死にした木曽義仲は、戦地からほど近い、この義仲寺に弔われたわけなのです。

 源平の世から八百年、木曽義仲と巴御前の墓のある義仲寺が、いわば、歴史の触媒となって、現代に生きる我々は、源平の世に思いを馳せることができる次第なのです。

 そして、義仲寺の来訪したことによって、義仲と巴御前のことを思うのは現代人だけではなかったのです。

 十七世紀後半の俳人、松尾芭蕉、この名を一度も耳にしたことのない受講生はいないと思います。『おくの細道』で有名な、かの松尾芭蕉もまた、幾度も義仲寺を訪れ、この寺に隣接した草庵、<無名庵>で、門人を集め、何度も句会を催していたのです。その時、島崎又玄(ゆうげん)が詠んだと言われている有名な句が、これです」


 木曽殿と背中合わせの寒さかな


「この句の中の『木曽殿』とは、もちろん、木曽義仲のことです。自分は、滋賀を来訪した時に何度か義仲寺を訪れているのですが、ここで、江戸時代の人間が義仲に思いを馳せていたことを考えると、この回顧行為によって、こう言ってよければ、現代・江戸時代初期・平安時代末期という三つの時代が一つに繋がるような感覚を覚えます。

 さらにです。

 この義仲寺には、松尾芭蕉の墓もあるのです。

 松尾芭蕉は、元禄七(一六九四)年に大阪に滞在していた時に急逝してしまったのですが、芭蕉は、自分の死後は、義仲寺に埋葬してくれ、という遺言を残していました。そして死後、門人たちによって、大阪から近江まで船で芭蕉の遺体は運ばれ、芭蕉の亡骸はこの義仲寺に埋葬された次第なのです。

 ここに、義仲と巴御前だけではなく、芭蕉までが眠っていることを考え合わせると、この義仲寺を訪れた時の感慨は、なお一層深まります。

 繰り返しになりますが、この義仲寺は、JRと京阪の膳所駅から、徒歩で十分もかからない、閑静な住宅街の中にぽつんと位置している、そんな、こじんまりした寺で、細い道に面しています。

 実は、です。

 この細い道こそが、旧き海道であった<東海道>なのです。

 つまり、です。

 実際に旧海道を歩いてみると、必ずしも、旧・東海道と国道一号線が完全に一致しているわけではないことを知ることができます。

 膳所の場合だと、国道一号線と旧東海道の距離は、直線距離で五百メートルほど離れています。

 旧・東海道の経路の中には、たしかに、今の国道一号線と重なる部分もあるのですが、膳所のように、国道化しなかった部分もあるのです。

 義仲寺に面している細道、旧・東海道は、その端から端まで、大股で三、四歩で横断できてしまう程度の道幅しかありません。ここが、近世までは、日本の幹線だったとは、今の感覚から言うと、ちょっと信じられません。

 だがしかし、です。

 義仲寺は車の往来で騒々しい国道一号線ではなく、今では、実用という面では、完全に忘れ去られたような旧き海道たる東海道に面しているからこそ、木曽義仲と松尾芭蕉は、背中合わせになって、静かに眠れているのかもしれない、そのように思えてしまいます。そこで、一句」


  旧海道と背中合わせのお寺かな


「『木曽殿と背中合わせの寒さかな』を文字ってみました。

 さて、今回はここまで。

 次回が年度最後の講義になります。まだまだ語り足りない気持ちも多分にあるのですが、残り一回、しっかりやっていきましょう。

 それでは」

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