第28講 東海道の虚実と写実

「みなさん、こんにちは。今回も<東海道>のお話です。

 江戸時代以前には、交通路、すなわち、<カイ道>と言えば、七〇一年の大宝律令の成立にまで起源を遡ることができる、<五畿七道>でしたね。これらは、畿内、今の近畿地方を中心に放射線状に伸びていて、それぞれの道には宿駅が置かれ、手紙や荷物を運ぶために、宿駅で馬をリレーしてゆく、いわゆる<駅伝制>が導入されていたのです。復習として、その七道を再確認しておきましょうか」

 隠井はスライドを見せた。


 <七道>

 東海道;東山道;山陽道;山陰道;西海道;南山道;北陸道


「この七つでしたよね。しかし、です。江戸時代に、日本の交通網は変化を迎えます。

 一六〇一(慶長六)年、関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康は、まず、江戸と各地を結ぶ交通路の整備に着手しました。

 それでは、なんのために、街道の整備が必要だったのでしょうか?

 それは、江戸幕府のように、日本全国という広大な地を統治することになった中央集権国家の問題の一つは、中央と地方との間に隔たる物理的な距離でした。

 日本の交通路に関しては、官道として、<五畿七道>が既に存在していましたが、この交通路は、今の関西、京都を中心にしていた道です。徳川幕府は、江戸に置かれたわけですから、当然、畿内を中心とする交通網では不便極まりなく、幕府が置かれ、新たな日本の中央となった江戸と地方の連絡手段を緊密にし、幕府の支配体制を強固なものにするためにも、徳川幕府にとって、江戸を起点とする道路制度の改革と、その整備が急務だったのは、納得ですよね。

 そうして構築された江戸起点の交通網が、日本史の教科書において<五街道>と呼ばれている交通網です。スライドにまとめておきました」


 <五(四)カイ道>

  街道名:起点   ;終点 ;距離(キロ換算);宿駅数

  東海道:江戸日本橋;大阪 :五七五      ; 五八

  中山道:江戸日本橋;草津 ;五三〇      ; 六七

 日光道中:江戸日本橋;日光 ;一五〇      ; 二一

 奥州道中:宇都宮  :白河 ;〇八四      ; 〇九

 甲州道中:江戸日本橋;下諏訪;二一四      ; 二二

 

「この一覧を見て、あれっ? と違和感を覚えた人もいるかもしれません。

 というのも、奥州道中だけが、<宇都宮>を起点にしているからです。

 江戸じゃないじゃないか、と。

 実は、たとえば、江戸幕府が作成した『伝馬拝借銭覚』という書物の中では、日光道中と奥州道中を合わせて一つにして扱ったりもしているのです。この説に従えば、江戸の日本橋を起点とするカイ道は、<四>つ、東海道、中山道、甲州道中、日光・奥州道中ということになりますよね。


 さてさて、みなさん、わたくしが事前にアップロードしておいた配布資料は、ダウンロードしてありますよね。

 このPDFファイル、大宝律令の<七道>と、江戸時代の<五カイ道>のリストを見比べてみて、即座に気づく共通項は何でしょうか?

 そう、七道においても、五カイ道においても、<東海道>が入っている、という点ですよね。

 つまり、奈良時代以来、畿内起点においても、江戸起点においても、<東海道>は主要な交通路の一つであり続けた、ということです。いやむしろ、中世においては七道の一つに過ぎなかった東海道は、江戸に幕府が置かれたことによって、将軍がいる江戸と、帝が住む御所がある京都を結ぶ海道としての重要度が高まった、という言う方がより適切かもしれません。

 したがって、東海道は、江戸幕府の成立を境に、古代・中世の<七道>の頃と、近世の<五カイ道>の時代において、異なる性質の海道になっているように思われます。


 古代・中世における東海道は、江戸時代ほどには、頻繁に旅人が往来するような交通路ではなかったように思われます。たしかに、平安末期の源氏の台頭や、鎌倉に幕府が置かれた時代に、東海道は、その重要度が増したものの、鎌倉幕府滅亡後の室町時代には、政治の中心は再び西に移ってしまったからです。

 したがって、七道の一つに過ぎなかった頃の東海道は、大部分の普通の人々にとっては、東国に向かう際に利用した道というよりもむしろ、実際に東海道を訪れたことのない大部分の読者にとっては、『伊勢物語』の『東下り』や『平家物語』の『海道下り』や、その後の、東海道を素材にした文学的・美術的創造物の中で描かれてきた<東海道>像を基にして、読者がそれぞれの想像力の中で創造してきた<虚実>としての<東海道>であるように思われます。


 これに対して、五カイ道の一つであると同時に、京都と江戸を結ぶ日本で最も重要な海道となった、江戸時代の東海道は、特に、江戸時代後期において、<巡礼>の流行によって、たとえば、伊勢参りなどをする際に、実際に旅人が自分の足で通り、己の肉眼で視認する道となったのです。

 その結果、江戸時代後期においては、書物の中で、<東海道>を作品の素材とする場合、古代・中世の頃とは描き方が異なるようになりました。

 その事例を、幾つか見てみましょう」


  一七九七年:秋里籬島(あきさと・りとう)『東海道名所図会』:名所図会 

  一八〇二年:十返舎一九(じっぺんしゃ・いっく)『東海道中膝栗毛』:滑稽本

  一八三一年:葛飾北斎『冨嶽三十六景』:浮世絵

  一八三四年:歌川広重『東海道五十三次』:浮世絵

  

「一列目の秋里籬島とは、名所図会の編纂者として知られています。

 <名所図会>とは、江戸時代の末期に刊行された、庶民向けの、挿絵入りの地誌のことです。これは、畿内や江戸、あるいは、諸国の名所旧跡や景勝地の由緒来歴や、各地の交通事情を文字で記し、それに、写実的な風景画を添えた書物のことです。

 名所図会の特徴は、文芸的・物語的な書物ではなく、事柄の来歴などを、<客観的・写実的>に記す、という点です。そしてさらに、挿絵がふんだんに用いられていて、こうした挿絵は、それだけでも、見て楽しむという観賞用として優れたものでした。そして、観賞用というだけではなく、名所図会の挿絵は、その写実性の高さ故に、地理的な説明を補助する役目も果たしていました。そして、名所図会は、当時の旅人の求めに応じて書かれたもので、つまるところ、実際に旅する者たちにとって、実用性に富んだものだったのです。今でいえば、名所案内、旅行ガイドブックですよね。

 そして、十八世紀末の名所図会の流行という状況下に書かれたのが、『東海道名所図絵』なのです。

 これは、京都の三条大橋から、江戸の日本橋までの名所旧跡や、宿場の状況、特産物、その地にまつわる伝説や歴史などに関して、秋里籬島が叙述したもので、その文章に付けられた挿絵の数は二百以上、約三十人の絵師によって描かれたそうです。


 そして、『東海道中名所図絵』刊行の五年後の享和二(一八〇二)年から刊行が開始され、文永五(一八二二)年まで、二十一年間もの長きに渡って書き継がれたのが、十返舎 一九の『東海道中膝栗毛』です。

 多分、我々が東海道を題材にした書物として、パっと思い浮かべるのがコレですよね。

 ちなみに、<栗毛>とは栗色の馬のことで、作品名にある『膝栗毛』とは、馬の代わりに、人が自分の膝を使う、つまり、徒歩旅行のことです。

 この作品内容は、『弥次さん喜多さん』という通称でも知られているように、この二人の人物を作中人物にした珍道中です。

 作者の十返舎一九は、もともと駿河の国、今の静岡出身で、その生まれからして東海道はなじみ深かった可能性もあるのですが、それだけではなく、一九は、頻繁に取材のために、旅にも出ていたそうです。つまり、物語、虚構作品とは言えども、『東海道中膝栗毛』は、作者自身が膝栗毛した取材に基づいて書かれた作品なのです。


 最初に挙げた、『名所図会』と『東海道中膝栗毛』、この二つの書物に関して興味深いのは、前者が、今でいうところのノンフィクション、後者がフィクション、このようなジャンルの違いがあるにもかかわらず、どちらも、原理的には、実際に自分で見聞きした、<現実>の東海道を素材にし、そこに、<写実的>な挿絵をふんだんに使っているという点です。

 こうした旅人のために書かれた、あるいは、旅人を題材にした<写実的>な書物の爆発的なヒットが、東海道を利用するさらなる旅人を生み出し、こうした循環が、江戸時代後期の庶民にとって、<東海道>をさらに特権的な海道にし、これに魅惑された人を誕生させたのではないでしょうか。

 そのことを物語っているのが、ノンフィクションの『東海道名所図会』と、フィクションの『東海道中膝栗毛』の刊行開始から、およそ四半世紀後に出現した、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』と、歌川広重の『東海道五十三次』という、東海道を題材にした浮世絵です。

 浮世絵という庶民向けの印刷物において、東海道が題材になっているという事実は、東海道が、長い年月、庶民に人気があり続けた海道であったことを示唆しているように思われます。


 さて、こうした、江戸時代後期に東海道を題材にした四つの作品を、文学・芸術の代表として取り上げましたが、これらは、実際に東海道を利用する旅人や、あるいは、作品を叩き台にして、自身の想像力の中で、空想の旅をする者たちのために書かれたり、描かれたりしたものだったのでしょう。それゆえにこそ、江戸時代の≪東海道≫像は、写実性が高いものになっているように思われます。


 ということは――

 文学や芸術作品の源泉であり続けた東海道は、性質が異なる二様の層によって構成されている、ということにならないでしょうか。

 一つは、『伊勢物語』の『東下り』や、『平家物語』の『海道下り』を下敷きにして堆積された、いわば<虚実>の中の<東海道>像です。

 そしてもう一つが、現実の東海道の旅や取材、それに基づいて作られた<写実>の中の≪東海道≫像であるように思われます。


 そして現代――

 古き時代の公道である道の多くは、鉄道などの交通機関の発達の結果、東海道も、関西と関東を結ぶ幹線としての役割を、東海道線や高速道路に譲ってしまい、膝栗毛の人々で賑わう、躍動的な海道として利用されていた時代は、完全に『今は昔』の、過去になってしまった、と言えるかもしれません。

 しかし、旧き物になったからこそ、東海道は、現代人の創造力に訴えかける力を帯びるに至っているように思われます。

 しかも、創作物中の東海道像は、七道時代の<虚実>の層と、五カイ道時代の<写実>の層によって構成されているのです。

 そのどの層を掘り起こして、東海道の何を素材にするかによって、我々は今なお、おもしろい想像、あるいは、創造をすることができるのではないでしょうか」


<参考文献>

『東海道名所図会 復刻版』,静岡:羽衣出版,一九九九年.

粕谷宏紀監修『東海道名所図会 新訂』(上・中・下),東京; ぺりかん社, 二〇〇一年.

十返舎一九『東海道中膝栗毛』(上下巻,岩波文庫),東京:岩波書店,一九七三年.

旅の文化研究所編『絵図に見る東海道中膝栗毛』,東京:河出書房,二〇〇六年.

葛飾北斎 画;日野原健司編『北斎富嶽三十六景』(岩波文庫),東京:岩波書店,二〇一九年.

歌川広重『東海道五十三次五種競演』,東京:阿部出版,二〇一七年.

内藤正人『北斎vs広重』,東京 : 敬文舎,二〇一九年.


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