第27講 東カイドウの<ソウゾウ>

「前回の駅伝の講義に引き続き、今回の講義でも<東海道>を取り上げます。

 日本全国を走り、かつて人々が移動に利用していた、旧き道の中でも、最も知名度が高いのは東海道でしょう。


 それでは、東海道はいつ成立したのでしょうか?

 なんと、大宝元(七〇一)年、日本史上初めての本格的な律令である、<大宝律令(たいほうりつりょう)>にまで遡ることができます。現代で言えば、<律>とは刑法、<令>とは行政法や民法のことで、日本の律令は、中国、当時だと唐の法を参考にして、それを日本の状況に応じて修正して作られました。大宝律令は、日本全土を統一した基準で治めるために作成されたもので、この時、各地の統治や、租税の徴収を円滑に行うために、都と地方を結ぶ交通路が整備されました。駅馬や伝馬の誕生もこの時で、<駅伝>の起源は、実は、江戸時代よりもさらに千年も前だったのです。


 大宝律令のために整備された道を知るために、<五畿七道(ごきしちどう)>を抑えておきましょう。

 五畿七道は、畿内七道と呼ばれることもあるのですが、これは、かつての日本の地方区分です。

 五畿(畿内)とは、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国のことで、現在の奈良、京都の中南、大阪、兵庫の東南部あたりに相当します。都に近い畿内、<近畿>という現代の地方名は、明らかにこれに由来していますよね。

 そして七道に関しては、東西南北に分け、さらに分類整理しておきましょう」

 隠井は、スライドを展開させた。


<七道>

<東>

東海道:三重(熊野以外);愛知;静岡;山梨;神奈川;東京;埼玉;千葉;茨城

東山道:滋賀;岐阜;長野;群馬;栃木;福島;山形;宮城;岩手;秋田;青森

<西>

山陽道:兵庫南西部;岡山;広島;山口

山陰道:京都北部;兵庫北部;鳥取;島根(<北>に分類する場合もある)

西海道:福岡;佐賀;長崎;大分;宮崎;熊本;鹿児島

<南>

南山道:三重の熊野地方;和歌山;淡路島;徳島;愛媛;高知;香川

<北>

北陸道:福井;富山;石川:新潟


「このように、古代の日本において早くも、全国は、都の周辺の畿内五国と、それ以外の七つの<道>に分けられていました。ここで注意したいのは、この場合の<道>とは、移動に利用する交通路のことではなく、今でいう<何々地方>という地域区分であった点です。この、地方を意味する<道>という呼称のソースも中国です。考えてみれば、七道の中には、東海、北陸、山陽、山陰など、現在の日本の地方名の由来になっているものもありますよね。

 ちなみに、明治二(一八六九)年に、北海道が新設されると、日本の地方に新たな<道>が加わって、五畿八道になりました。つまるところ、北海道の<道>とは、そもそも地方の意味なのです。

 さて、畿内地方から、七つの<道>へは、放射線状に交通路が伸びていました。そして、山陽道や東海道とは、地方という意味だけではなく、国の国府と国府を結び、人々が移動に利用する交通路という意味も帯びるようになったのです。

 この五畿七道の中で最も大きかった大路は、山陽道で、東海道は、山陽道に次ぐ中路でした。現代人の感覚で言うと、えっ、山陽なの!?って思うかもしれませんね。


 さてさて、東海道が、数ある道の中でも、文学や美術作品の中で頻繁にその素材となる、ある種の特権的な意義を持つようになった、そのきっかけは、これでしょう」

 隠井はスライドをめくった。

 

 『伊勢物語』:平安時代初期に成立<現存する歌物語の中で最古>

  短編歌物語集(全一二五段)

 「東(あづま)下り」(第九段)

 「むかし、おとこありけり」:在原業平(八二五~八七〇年)と思しき男が主人公


「スライドに表示したのは、日本最古の歌物語である『伊勢物語』に関する基本情報です。ここで着目したいのは、その第九段の『東下り』です。

 <東下り>とは、京の都、平安京から、地方としての東海道へ行くことです。今でこそ、たとえば、新幹線で東京に向かうことを<上り>、東京から地方に向かうことを<下り>と言いますが、古代・中世の日本の七道は、畿内地方を中心にしていたので、都を出発点とし、ここから他の地に向かうことこそが<下り>だったのです。

 さて、『伊勢物語』の時代、東海道の行き着く先である東国は、都の人々にとっては、猛々しい東夷(あづまえびす)が住む地だと考えられていました。

 しかしその一方で、東国は、京の人々によって、単なる忌避の対象ではなく、同時に、<もののあわれ>を覚えさせるような地でもあったようです。つまるところ、未知なるものに対する憧れですよね。たとえてみると、中世後期の欧州人にとって、日本が<黄金の国ジパング>だったみたいなものですね、おそらくは。

 とまれ、こうしたミヤコビトにとって未知の地方たる<東海道>、東海道に向かうために利用する交通路としての<東海道>、そして、東海道への道行きという事象である<東下り>に関して、人々は、たとえ憧憬の念を抱いていたとしても、もしかしたら、『伊勢物語』以前には、都から遥かに遠い東海道に対して、漠たる印象しか抱けなかったのではないでしょうか。

 しかし、です。

 『伊勢物語』の『東下り』によって、東海道が具現化されると、読者それぞれが、もっと具体的に、各々の東海道像を想像することができるようになったように思われます。

 そして、譬えてみるのならば、『伊勢物語』の『東下り』を下地にして、その後に、芸術作品における東海道像は再現されてゆくことになります。

 例えばそれは、『平家物語』の『海道下り』です。

 なるほどたしかに、『伊勢物語』の中で<東海道>が描かれたとはいえども、歴史的に言うと、東海道が、交通路としての重要性を増す切っ掛けになったのは、平安時代末期における源氏の台頭です。そして、源氏と平氏の対立が激化してゆくにつれて、東海道を移動する人の数も増していきました。そして、源頼朝が鎌倉幕府を開いた結果、東海道の重要性は一気に増して、日本で最も重要な道となり、今に至っているのです。

 東海道が重要になると、当然、人の往来の頻繁化、交通量が増加します。その結果として、東海道では、幾つもの歴史上の出来事が起こったり、また、様々な文学作品の中で東海道が描かれるようになりました。

 たとえば、清盛の五男である平重衛(たいらの・しげひら)が、寿永三(一一八四)年の一の谷の合戦で敗れて捕虜になった際に、鎌倉に護送された、いわゆる『関東下向』の際に利用されたのは、東海道でした。

 そして、この歴史上の出来事とその道中の様子は、『平家物語』の『海道下り』の中で描かれています。

 『平家物語』は、鎌倉幕府の前半を扱った歴史書である『吾妻鏡(東鑑)』と違って、平家の隆盛から、源平の戦いを経て、平家の滅亡までの歴史を題材にした虚構作品です。そしてさらに着目したいのは、『平家物語』は、琵琶法師の語りによって、文字を読むことができなかった人にも、その内容は知られ、結果、さらに広い層に流布してゆくことになったのです。

 そうして、『伊勢物語』の『東下り』を起源とする、東海道像を下地として、『平家物語』の『海道下り』の読者や聴き手が、おのおのの想像力の中で、それぞれの東海道像を再形成してゆきました。


 その後――

 『更級日記』、『海道記』、『東関紀行』、『うたたね』、『十六夜日記』、『太平記』、『都のつと』、『正広日記』、あるいは、『紹巴富士見道記』といった文学作品の中で、地方としての東海道、交通路としての東海道、畿内から東海道への道行きである海道下りは、繰り返し描かれることによって分厚く塗り重ねられてゆき、かくして、芸術作品における<東海道>は、どんどん<層増>されてゆくことになったのでしょう。

 このように形成された、ある種の理想化された神話的な東海道像が、文学や美術における創造力の源になり、結果として、東海道は特権的な地位を得るようになったように思われます。

 つまり、何世紀にも渡って、様々な層によって堆積化された東海道像、そのどの部分を掘り起こすかによって、東海道は異なる様相を見せるように思われます。その結果、同じ東海道を素材としつつも、作り手のそれぞれの観点に応じて、多種多様な創造が可能になるのではないでしょうか。


 そうそう、明治維新以前には、道を意味する<カイドウ>には、<街道>ではなく、<海道>という漢字を当てるのが一般的だったそうです。

 以前わたくしは、『平家物語』の『海道下り』は、東海道を下るから、<海道>の漢字を使っているのだと普通に考えていましたが、実は、<街道>は近代以降の当て字だったのです。

 この知識をもってすれば、<ほっかいどう>が、何故に、<北街道>ではなくて、<北海道>になっているのかも理解できますよね。



<参考資料>

山本光正 『東海道の創造力』,京都:臨川書店,二〇〇八年.

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