わが往くは旧き海道
第26講 正月の風物詩
「年が明け、新年を迎えましたね。今年度の講義は一月だけ、残りわずか数回ですが、しっかりやってゆきましょう。
皆さんにとっての正月の風物詩とは何でしょうか? 小・中・高と陸上部だったわたくしにとっての正月の風物詩、それは駅伝です。
元日は、群馬で開催される「全日本実業団対抗駅伝」、そして二日・三日には、「東京箱根間往復大学駅伝競走」、いわゆる「箱根駅伝」が催され、年始の三が日は駅伝三昧です。
し・か・し・です。
箱根駅伝の第一回大会は一九二〇年に開催されたのですが、「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」(以下「内規」と略記)の「第1章 総則」の「第1条」を参照すると、現在あるように、「1月2日、3日の両日」開催になったのは、一九五六年の第三十二回大会からだそうです。しかし、正月開催になってから既に半世紀以上を経て、<正月の箱根駅伝>は、今や完全に日本の正月の風物詩となっていますよね。
言わずもがなの事実でしょうが、駅伝とは、主として公道で行われる長距離走のリレーのことです。
それでは、駅伝という名の由来や、その起源は? となると、これは、それほど周知の事柄ではないように思われます。
競技としての駅伝の歴史は、一九一七(大正六)年四月二十七日にまで遡ることができ、その最初の駅伝は、<東京奠都(てんと)>五十周年に催された記念行事だったそうです。
<東京奠都>とは、明治維新を機に、江戸から東京に改称し、東京を首都に定めたことを言います。
その経緯をまとめてみましょう」
隠井はスライドを見せた。
1:明治維新:東西両都の両都制 or 両京制(りょうけいせい):
首都を京都と江戸の二都とする制度
2:慶応四年七月十七日(一八六八年九月三日):江戸を<東京>に改称
3:慶応四年九月八日(一八六八年十月二十三日):元号が<明治>に
4:明治二年(一八六九年)に:政府が京都から東京に移る
単都制(国家に都を一つだけ置く)に移行
「皆さんの中には、<遷都>は知っているけれど、<奠都>って初めて耳にした、という方もいるかもしれません。
辞書的な意味では、<遷都>は都を<移す>ことで、<奠都>は都を<定める>こと、と使い分けられています。
どちらも違いがないように思え、君たちの頭上に、疑問符が浮き上がっているのが見える気がします。
<遷都>の場合、この語には旧き都の廃止という意味が含まれます。東京に都が置かれた経緯を見てみると、最初は京都と江戸の両京制がとられ、その後に、単都制になったわけで、それで、京都が廃れたわけではありません。したがって、京都から東京への首都の移行は、<東京奠都>と称するのが適切なのです。
閑話休題――
駅伝の起源である東京奠都五十年記念の駅伝競走とは、京都から東京までの、約五十六キロメートル・二十三区間を関西組と関東組に分かれて競うというものでした。駅伝における集団の絆の象徴である襷(たすき)は、この最初の駅伝の時から既に走者の交代の証として用いられ、関東組は紫、関西組は赤の襷だったそうです。ちなみに、出発地の京都の三条大橋と、到着地の東京の不忍池のほとりには、「駅伝発祥の地」の碑があるので、京都や上野を訪れた際には、その碑を探してみるのも一興かと思います。
さて、四月二十七日の午後二時に京都を出発し、東京に関東組が先着したのは、翌々日の四月二十九日の午後十一時半だったそうです。つまり、およそ丸二日、走者は昼夜を問わず走り続けたのです。この約五百キロ、丸二日の間には、今の駅伝では考えられないような様々な珍道中もあったらしく、たとえば、当時、橋が架かっていなかった川を選手は船で渡ったとか、夜間の折には、住民が沿道で松明を灯して、選手たちの助けをしたという話もあります。そうそう、夜間区間は箱根だったそうです。
この長距離中継競争、マラソン・リレーとは、実は世界初の試みで、企画したのは読売新聞社でした。その「大正六年三月一日付」の記事を参照すると、「奠都記念驛傳競走」や「東海道五十三次驛傳團体中繼徒歩競走」という文言が認められます。つまり、この世界初の長距離中継競走に「驛傳」という名称が与えられたのも、当然、まさにこの時なのでした。
新聞記事において確認できた競争の名称について着目したいのは、この競争が、京都と江戸を結んでいた街道である<東海道>で行われたという事と、<駅伝>という名称です。
奠都の周年行事という背景もあり、企画者は、たとえば、マラソン・リレーとかではなく、和風の名称に拘ったらしいのですが、最終的に、<駅伝>に決まりました。その名付け親と言われているのが、当時の大日本体育協会・副会長で、神宮皇学館(現・皇學館大学)の館長であった武田千代三郎氏です。氏は、街道における<伝馬制>から着想を得たそうです。
たとえば、江戸時代、公道である街道には、三十里(約十二キロメートル)ごとに中継地が置かれ、これが<駅>と呼ばれていました。駅には、宿泊施設が置かれ、ここには馬が常備され、この馬を乗り継いで、駅から駅へと物や情報を繋いでゆく交通や通信の制度が整備され、この仕組みが、<駅制度と伝馬制>と呼ばれていました。
中継点、すなわち<駅>で、次の馬に繋いでゆく<駅(制度と)伝(馬制)>は、まさに、中継地で次の走者に襷を繋げる、<駅伝競走>と同じ構造で、<駅伝>という名称は、まさに言い得て妙ですよね。
そして、この駅伝競走の走路となったのが、江戸時代の公道である旧き街道の中でも、もっとも広く人々に知られている<東海道>でした。参照した新聞にも「東海道五十三次」という文言がありましたね。
江戸時代、移動手段が未だ徒歩であった時代、<東海道>は関西と関東を繋ぐ幹線道でした。しかし、明治時代に入って徐々に、関西・東京間の移動経路としての役割を、東海道は、鉄道に譲ることになります。
一八八九(明治二十二)年、新橋駅から神戸駅までのおよそ六〇〇キロメートルが鉄道で結ばれ、その後、一八九五(明治二十八)年には、この路線は<東海道線>と名付けられました。
史上初の駅伝である「東海道駅伝中継徒歩競走」(以下、東海道駅伝と略記)が開催されたのは一九一七年、京都・東京間の長距離移動には鉄道を利用するのが当然になっていた時代です。
このような鉄道の時代に、古き時代の象徴であるような旧街道の代表である東海道を、鉄道ではなく、人が自らの足で移動する、この点にこそ、史上初の駅伝のロマンというか、文化的な意義があるように思われます。
さらに言うと、出発地が江戸時代の五街道の起点である東京ではなく、京都という点に着目しましょう。このことは、首都が京都から東京に移り変わった<東京奠都>を、走者の移動によって表わそうとしたものであるかのように思われます。
さてさて、東海道駅伝において、人による東京奠都の締めくくりとして、関東組の最終走者を務めたのが、実は、金栗四三(かなくり・ しそう)氏(一八九一~一九八三年)でした。
国営放送の大河ドラマで主人公になった人物なので、この名を聞いて、あっ! と思った受講生もいるかと思います。
東海道駅伝の時、金栗氏は二十五歳、運動選手としての絶頂期でした。この五年前の一九一二年には、日本人初のオリンピック選手の一人としてストックホルムオリンピックに出場しています。この時、金栗氏は競技中に行方不明になってしまったのですが、<マラソン競技途中で消えた日本人>の逸話を、どこかで耳にした人もいるかもしれません。
金栗四三選手は、一九一六年のベルリンオリンピックにも出場予定だったのですが、この大会は第一次世界大戦のために中止、その後、一九二〇年のアントワープオリンピック、一九二四年のパリオリンピックでもマラソンの代表となっており、中止のベルリンを含めると、四度のオリンピックの代表になっている、「日本のマラソンの父」とも言い得る人物です。
ストックホルムオリンピックで、体調不良のため途中棄権をし、苦渋を飲んだ金栗氏は、日本のマラソン強化のための選手層の増加と選手の強化を考えており、そこから生まれた構想が、<大学生の駅伝競走>で、金栗氏は、東京の大学に呼び掛けて、駅伝大会を企画したそうです。その成果として、一九二〇年二月十四日に、東京・箱根間の公道で行われたのが、<四大校駅伝競走>です。この走路が、東京・箱根間であることからも察することができるように、これこそが、今の<箱根駅伝>のはじまりだと言われています。
「だと言われています」と述べたのは、あくまでも起源の一つだからです。
別の起源は、選手強化のためではなく、観光客集客目的という説です。
箱根は、冬になると観光客が少なくなるため、駅伝を開催することによって、箱根に宿泊客を呼び込む目的で開催された、とも言われているのです。
これって、昨年末にお話しした、日本で年末に『第九』が演奏されている起源は、楽団の演奏者のために仕事をつくる目的だったという話と、どことなく似ていますね。
とまれ、現在の箱根駅伝は、実際、極めてイヴェント性が高く、集客率の高い観光行事なのは確かで、それは、例年、沿道で応援に集う人の数が物語ってきましたよね。このような観光的な要素は、その起源が、箱根駅伝が観光目的で始められた事と無関係ではないかもしれません。
さて、ここで、東海道五十三次における、江戸・日本橋から箱根までの<宿駅>と、箱根駅伝の出発点・中継点・到着点を比較してみましょうか」
宿駅:<日本橋>;品川;<川崎>;神奈川;程ヶ谷;<戸塚>;
藤沢;<平塚>;大磯;<小田原>;<箱根;箱根関所)>
中継地:東京・大手町;鶴見;戸塚;平塚;小田原;箱根町・芦ノ湖
「上が宿駅で、下が駅伝の中継地なのですが、宿駅の中で駅伝の中継地になっている個所は<>で示しておきました。
このように比較するまでもなく、東海道における宿駅が、箱根駅伝の中継地になっているのです。さらに、旧街道である東海道と、箱根駅伝の走路を比較したサイトもあって、それを参照してみると、多少のずれがあるとはいえ、箱根駅伝が東海道を走路としている事が分かります。
日本の駅伝とは、そもそも、長距離走者を飛脚とし、手紙に見立てた襷を、中継地である宿駅で繋いでゆく、というもので、史上初の駅伝である東海道駅伝が、新聞で「東海道五十三次駅伝」と呼ばれていたように、駅伝は、単なる公道でのマラソン・リレーではなく、江戸時代の街道における<伝馬制>を下敷きにした行事だったのです。
このように考えると、箱根駅伝こそが、江戸時代の伝馬制を基盤にした東海道駅伝の<血統>を正当に引き継いだ、由緒正しき真の駅伝の後継者であるようにさえ思われてきます。
関東の大学間の地方大会に過ぎないはずの箱根駅伝に何故、多くの人が魅せられるのか?
それは、箱根駅伝が旧街道たる東海道と伝馬制に根差しているという点が、多くの日本人の琴線に触れているからなのかもしれません」
<参考資料>
<WEB>
「東京箱根間往復大学駅伝競走に関する内規」,二〇二〇年一月十日閲覧.
「箱根駅伝と旧東海道の関係をグーグルマップで見る」,二〇二〇年一月十日閲覧.
<新聞>
「大正六年三月一日付」,『讀賣新聞』,二〇二〇年一月十日閲覧.
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