冬Q第07講 魂の在処はどこですか?:古代エジプトの大英博物館ミイラ展 

 隠井は、ゼミ開始前にこの日の発表者を確認した。

(おっ、今日は、メーダイか)

「それでは、今日の発表者お願いします」


「ウィ、ムッシュ~。複合文化論系三年の大田明(おおた・あきら)です。昨日、古代の女神で発表した〈ふ〜ちゃん〉とは、一年の時の二外のフラ語が一緒で、〈ムッシュ〜・隠井〉には、その時にお世話になりました。今回もよろしくっす」

 大田明の漢字の順序を入れ替えると〈田明大 〉という並びになる。だから、「みんな、自分のことは〈メーダイ〉と呼んでくれっす」と、大田が一年生の最初の講義で自己紹介をして以来、隠井もまた、彼のことを〈メーダイ〉と呼んでいるのだった。


「自分の専門は、西洋史でも考古学でもないのですが、今回は、古代エジプトを題材に発表をする予定です。

 自分、エジプトには前々から興味はあったのですが、六月に東急の文化村でやっていた、ライテン博物館の古代エジプト展は、タイミングが合わなくって行くことができませんでした。

 で、六月に行けなかったことで、自分の内なるエジプト熱は、一旦さめてしまったのですが、でも、ちょうど今、上野の国立科学博物館で『大英博物館のミイラ展がやっていて、〈焼け木杭には火が付いた〉ような精神状態になっています。

 上野の国立科学博物館は、昨日、ムッシュ~が言っていたように、うちの大学と提携しているので、六百三十円の割引で入館できて、これは、けっこうアドでした。

 自分らは、一年の時に、ムッシュ〜から、このパートナーシップのことを教えてもらってたんで、多謝です。

 ただ、パートナーシップを利用する場合にも事前予約は必須で、自分らは、本当は、九時に開館凸したかったのですが、当日の朝にサイトにアクセスした所、日曜ってこともあってか、午後の二時半から三時の時間帯しか空いていませんでした。

 自分らは、三時少し前に到着して、それから、バッグと上着を博物館の外にある、百円が戻ってくるタイプのロッカーに預けました。

 で、今回展示されているミイラは六体なので、なんとなく、一体十分で一時間くらいと見積もっていたのですが、結局、閉館ギリギリまで居たので、観覧時間は二時間以上はみておいた方がいいと思います。

 それでは、今回のミイラ展に行った結果、発想したゼミ論のテーマについて話します」


「ちょっと待って、メーダイ」

 本格的に発表を始めようとした大田に、隠井が待ったをかけた。

「なんすか、ムッシュ~」

「受講生の中には、死体や、血や内臓などが、どうしても苦手という方がいるかもしれません。そういった学生は、無理せずに、一時的に退室して廊下にいてもかまいません。終わったら声をかけるので」

 かつて、講義で扱った映像の血が流れるシーンを観て気絶してしまった学生が、実際にいたので、隠井は配慮したのだった。そして、三人の学生が教室から出て行った。


「それでは、再開します。今回の展示物の中で面白かったのは、最後の〈七〉体目のミイラとして、展示会場の最後の方に置かれていた〈猫のミイラ〉でした。

 古代エジプトでは、人間だけではなく、蛇や鳥や猫のミイラが作成されていたらしいのですが、その猫のミイラのコーナーでは、なんと、再現された、猫のミイラの匂いを嗅ぐことができるようになっていたのです。実は、おっかなびっくりだったのですが、自分らもその列に並んで、猫のミイラの匂いを嗅いでみることにしました。もしかしたら、たとえば、世界で最も臭い食べ物とされる、ニシンの〈シュールストレミング〉みたいな、ものすごい激臭かもしれないじゃないですかっ! そりゃ、軽くビビるって話ですよ。

 その体験コーナーでは、蓋の上で手をかざすと、センサーが反応して蓋が一定時間自動的に開いて、その間に鼻を近づけて匂いを嗅ぐっていう手順になっていました。

 で、感想なのですが、激烈な臭気ではなかったです。

 まあ、考えてみれば、もしも、ものすごく臭かったら、展覧会の会場内で漂っているはずですし、自分らの前に並んでいた観覧者だって、オーバーな芸人さんみたいなリアクションをしているはずですしね。

 自分の嗅覚では、お寺とかで嗅ぐような〈お香〉のような印象を受けました。感覚なので他の人がどう感じるかは分かんないんですけれど、気になった方は自分で行って確認してください。こういうのって。やっぱ実際に自分で行ってみないと分かんないっすよね。最近流行りの〈VR美術館〉も、さすがに匂いは再現不可能でしょうし」


 ここで、大田は、一度、飲料水で喉を潤した。


「さて、印象批評はここまでにして、ゼミ論のテーマとなりそうな、このミイラ展における、自分の着眼点の幾つかに関して話します。


 最近のミイラ研究は、まず〈病院〉からスタートするのだそうです。これまで、自分らのような素人が思い描いていたのは、グルグル巻きにされている包帯を取り外して、剥き出しになったミイラを解剖するのがミイラそれ自体の研究だと思い込んでいました。しかし、そういった方法は、前世紀前半における完全に過去の、古びた方法であるようです。事実、一度包帯を解いて解剖してしまったミイラは傷んでしまい、そうして破壊されたミイラは、二度と研究素材にすることができなくなってしまうそうです。

 しかし、医療技術の発展に伴って、すでに二十世紀後半においては、ミイラ研究には〈CTスキャン〉が導入されていたそうです。この方法だと、包帯の上からスキャニングすることが可能で、ミイラを痛めることがなくなるのですが、しかし、古いCTスキャンだと、解像度が今一つで、それゆえに、実際に解剖しないと何も分からないと主張する研究者もいたそうです。

 でも、最新の研究においては、CTスキャンの精度が向上し、今では、この方法が普通であるようです。さらに、CTスキャンをした上で、コンピューター・サイエンスを利用し、たとえば、3Dによる映像化も可能になり、技術革新によって様々な情報が得られるようになっているそうです。

 つまり、技術の発展に伴うミイラ研究における研究者の共通認識の変化、〈パラダイム・シフト〉というのが、ゼミ論のテーマとして先ず思いついたことです。


 今回の猫以外の六体のミイラは、紀元前八百年頃から紀元後百年頃の約九百年という時間的幅をもつ六体のミイラで、全てが上流階級の人物だったそうなのですが、その第五のミイラは、ギリシアとローマの支配下、〈グレコ・ロマン時代〉にエジプトで作られたミイラで、それは子供のミイラでした。

 実は、子供のミイラというのは、グレコ・ロマン時代以前のエジプトには存在していなかったそうです。

 このことを知って発想したのは、〈子供〉とは何か、という共通認識が、このギリシア・ローマ支配下の時代に変化したのではないか、ということです。

 それは、エジプトにおける子供の概念の変化なのか、それとも、ギリシア・ローマの影響なのか気になっています。


 そしてさらに自分が興味深かったのは、次の点です。

 ミイラを制作する際には、内臓や脳などを全て抜き取って、いわば防腐処理を施したそうです。しかし〈心臓〉だけはミイラの体内に残されたそうです。

 ちなみに、古代エジプトでは、心臓のことを〈イブ〉と言っていたそうです。この〈イブ〉だけがミイラの体内に残されたのは、古代エジプト人たちは、脳ではなく、イブにおいてこそ、感情を抱き、思考している、と考えていたからだそうです。

 そして、心臓は、死後も冥界において生き続け、死者の審判の際には、アヌビス神などによって心臓が調べられる、と考えられており、だからこそ、内臓全てを取り出しても、心臓だけはミイラの中に残されたわけなのです。

 ところが、です。

 今回の六体のミイラの中には、何体か〈脳〉が残されているミイラがありました。

 古代エジプトにおいては、脳は、たとえば、鼻水を生み出す器官だと考えられていたそうで、だからこそ、ミイラ制作の時も、鼻孔から器具を入れて脳を取り出していたそうで、脳は重要な器官とは考えられてはいなかったそうです。

 しかし、CTスキャンの解析の結果、脳が残されているミイラが数体あったそうです。

 はたして、これは、単なる、ミイラ職人の脳の取り忘れなのでしょうか? 脳が残されていたのは、今回の六体のうちの一体だけではなかったのです。

 現代においても、人の魂は何処にあるのか、脳か、それとも心臓かというのは、よく話題にあがる話だと思うのですが、もしかしたら、古代エジプト人の中にも、自分の魂は脳に宿っている、と考えた人がいたのかもしれませんし、これが、集団の認識ならば、魂の在処に対する、古代エジプト人のパラダイム。シフトを示しているもののようにも思われます。


 認識論の変化という観点から、今回の展覧会を見て、自分は、幾つかの古代エジプトに関する〈変化〉に気付きました。ここから、どう展開させるかは、いまだ考え中なのですが、何か面白いことが言えそうな予感はしています。


 それでは、ここまで、話を聞いてくださり、ありがとうございます。大田明こと、メーダイでした」


「さて、それで…」

「ちょっと待ってください、ムッシュ~」

 隠井が、発表に対するコメントを述べようとした際に、大田が話を遮った。

「一つ、付け足したいことが。古代エジプト展では、アプリでダウンロードするタイプの音声ガイドもあるのですが、そのナレーターは、声優の島﨑信長(しまざき・のぶなが)さんでした。以上です」


 大田は、発表の二日後の土曜日にコメントを隠井から受け取った。


「お~、音声、信長くんか。なんか熱いな」

「パラダイム・シフトって観点から、いくつか言及あったけれど、魂はどこにあるかって話、なんか面白いな」


〈参考資料〉

「ライデン国立古代博物館所蔵 古代エジプト展」,二〇二一年十一月二十七日閲覧.

「大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語」,二〇二一年十一月二十七日閲覧.

「大英博物館ミイラ展」,『聴く美術』,二〇二一年十一月二十日視聴.

〈訪問日〉

国立科学博物館,東京都台東区上野公園7-20,二〇二一年十一月二十日.

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