冬Q第10講 キュケオーンを作り、そして食してみた
「今日の発表者は、オンラインでの参加だったよね。
ミーティング・アプリは機能しているかな? まずは状況確認、発表者の方、僕の声が問題なく聞こえていたら、返事をください」
「はい、大丈夫です、聞こえています」
教室に常設しているスピーカーから、発表者の声が流れ出てきた。
「それじゃ、今日の発表の際に使う資料って、何かあるかな?」
「はい、わたしが撮影した動画を使います」
「オッケー、今、ホストの僕しか〈共有画面〉が使えない設定にしてあるので、ちょっと待ってて。速攻で、君にも使えるように変更するから」
隠井は、素早く設定の修正を行った。
「これで、大丈夫なはず。多分、君のミーティング・アプリにも〈画面共有〉って項目があるので、まずは、ディスプレイ上にファイルを開いておいて、それから、〈画面共有〉をクリックした後、見せたいファイルを選べば、教室の僕のPCにも、それが反映されるはずだから、とりあえず、見せる予定の動画を共有させてみて」
「それでは、今日流す予定の動画の冒頭を、ちょっと流してみます」
しばらくした後、発表者のPC画面が共有され、動画が流れ出した。
しかし、映像は問題なく流れているものの、音声は無音のままであった。
「あれ、今日の動画って、〈活弁〉でやるの?」
「先生、〈カツベン〉って何ですか?」
発表者が、隠井に問うた。
「えっと……。〈活弁〉ってのはさ……、大昔の映画って音声がなかったんだよね。それで、流れている映像に合わせて、実際に映画館にいた人が、その場で映像に合わせて音声を付けてたんだ。それが活動写真弁士で、略して〈活弁〉だよ」
「なんか、イヴェントとかで、声優さんが、ステージ上で映像に声を当てるのに似ていますね」
教室にいる受講生の一人から、そんな感想が漏れ出た。
一方、発表者の方は、というと――
「えっ! そんな高度なことをするつもりはありません。私の動画には、そもそも音声が入っているはずです。自宅のパソコンからは音が流れているのですが……」
「う〜ん、奈辺に原因があるのかな? 動画は観れているし、君の声も聴こえているから、最悪、〈カツベン〉でやってもらえば、発表はできると思うんだけど」
「そんな……」
「そうだっ!」
隠井は、原因が思い当たった。
「画面を共有させる際に、多分、左下だと思うんだけど、〈音声共有〉脇の〈□〉ボタンに〈☑〉を入れた? この四角をチェックしておかないと、コンピューター内の音声が共有できないような仕様になっているんだよ。
じゃあさ、一回、今の〈共有〉を停止させて、音声ボタンをチェックした上で、改めて、画面共有をしてみて。慌てなくていいから」
「わかりました。やって、やってみます」
数十秒後、再び画像が、教室前方のスクリーンに投影された。
「それでは、動画を再生してみます」
発表者の自信なさげな声の後、一時停止にされていた静止画が動き出した。
そして同時に――
「お母さん、粉の水気を切っておいてって言ったでしょっ!」「もう、怒鳴らないでよ。なら、全部、自分でやりなさいよ。ちゃんと準備しておかないから、あなた、慌てるのよ。いつも言っているでしょっ!」という母娘のやりとりが流れてきて、その直後、動画は緊急停止されたのだった。
「「「「「「「……………………………………」」」」」」」
教室に満ち満ちた、気不味い空気が少し緩和した数秒後、発表者の声がスピーカーから流れてきた。
「……。先生、動画の音声って流れちゃいました?」
「……。う、うん、動画の音声自体が流れているのは確認できた。えっと……、内容は聞かなかったことにしておくよ。ま、オンラインは色んな事が起こり得るよね、あるあるだから、気にしないで」
「は、はずかしいぃぃぃ〜~~、本番用の動画ではなく、テイクワンのNG動画を流しちゃいました〜。ビエンです」
「まあ、映像と音声は、きちんと機能しているみたいなので、僕が教室で出席確認をしている間に、発表に向けて、君の気持ちを落ち着けておいてくださいね」
「は、はい……」
そして、隠井は、講義開始前の出席とイントロの四方山話を、いつもよりも少し長めにしたのだった。
「さて、そろそろ大丈夫かな?」
「はい」
「それじゃ、お願いします」
「複合文化論系三年の副川浩子(ふくかわ・ひろこ)です。
わたしは、今、地元の岡山にいて、普段、オンラインで講義に参加しているので、今日の発表も、オンラインで失礼します。そして、先程は、お聞き苦しい動画、失礼いたしました。
それでは、気を取り直してゆきます。
今回のこのゼミでは、書物だけではなく、フィールドワークによる取材結果をゼミ論に反映させる、ということで、他の受講生の皆さんは、美術館や博物館、あるいは、映画館に行ったりしているようですが、在宅受講生であるわたしは、外に取材に行くのが難しい状況にあります。
そこで、先生に相談したところ、論考材料が書物以外の何かであるのならば、『書を携えて町に出よう』というゼミの大筋からは外れない、という助言をいただいたので、わたしは、今日、料理の〈実演〉をしてみることにします。
先週の葛西さんの発表にもあったのですが、『ソードアート・オンライン』の中に出てきたような〈黒パン〉が、コラボカフェで提供されたように、漫画、アニメ、実写ドラマなど、映像系の物語の中に出てきた飲食物が、実際に再現されている、という話はよく耳にします。
特に実写の場合、その再現は容易であるように思われます。また、漫画やアニメも視覚的な情報が豊富なので、少なくとも、見た目に関しては、虚構を模倣することも可能でしょう。
小説の場合はというと、文字情報だけなので、本の中に出てきた料理の再現は困難なように思えるのですが、小説の映像化が巷に溢れ返っている状況を考えると、小説における料理の再現も、十分にでき得るように思われます。
そして、何とです。
実は、近・現代の小説だけではなく、神話の中に出てきた料理の再現すら為されているのです。
わたしは、〈複合〉で神話の研究をしています。そこで、今日は、このゼミ発表という場をおかりして、ギリシア神話に出てきた、とある料理を再現してみます。
皆さん、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』「第十歌」に出てくる〈キルケ〉という魔女をご存知でしょうか?
もしかしたら『FGO』をプレイしている方には周知の存在かもしれませんね。
『オデュッセイア』の中には、そのキルケが作った〈キュケオーン〉という料理が出てきます。
でも、それって、神話上の空想上の代物でしょって思っている方もいるかもしれません。
しかし、実は、こういった本があるのです」
副川は、画面の中で一冊の本の表紙を見せた。
『古代ギリシア・ローマの料理とレシピ』
「この本は、古典文学の中に出てきた料理について書かれたもので、すごいのは、四十九もの品のレシピがついている点です。
そして、キルケの〈キュケオーン〉のレシピもあるのです。
本当は、このゼミで、調理をリアルタイム配信しようと思っていたのですが、発表時間内に収めるのは難しそうなので、テレビの料理番組のように、あらかじめ撮影しておいた動画をお見せすることにします」
そう言った副川は、冒頭に母娘喧嘩のない動画を、流し始めたのだった。
『副川です。
それでは、〈四人〉分の〈キュケオーン〉を作ることにします。
材料は、セモリナ粉を120グラム、リコッタチーズを375グラム、ハチミツを大さじ2、溶き卵を少々です。
それでは、レシピ通りに料理してゆきます。
まず、用意したセモリナ粉を、十分から十五分ほど水に浸します。
セモリナ粉が柔らかくなったら、水気を取って、残りの材料を加えます。
しかし、粉が柔らかくなるまで十五分も待っていられないので、ここに、既に水気を取ったセモリナ粉が準備してあるので、これに、チーズ、ハチミツ、溶き卵を加えてゆきます。
よくかき混ぜた後、これを火にかけ、煮立たないよう、ゆっくりと熱します。
熱し終わった物もここにあります。
それを、器に盛って完成です』
ここで調理動画は終わった。
「実に簡単でしょう?
それもそのはずです。
〈キュケオーン〉というのは、キルケが作った〈麦粥〉で、そもそも、お粥なわけですから、あまり凝った料理ではないのです。
レシピ通りに作ったキュケオーンは、ハチミツのせいか、わたしには甘過ぎるように感じられました。現代の日本人の味覚、あるいは、自分の口に合わせるのならば、ハチミツの分量の調整、これが味のポイントになるように思われます。
わたしは、ギリシア神話の勉強の過程で、キルケやキュケオーンについて調べている時に初めて、古代ギリシアやローマの文献の中に出てくる料理を再現しようというレシピ本の存在を知ったのですが、こんな風に、古代の料理を再現しようという試みは他にもあります。
古代ローマ関連のものは他にもありましたし、なんと、古代メソポタミアの料理のレシピもありました。
今回のキュケオーンの調理、本当に面白かったので、他の古代料理にも挑戦してみたい、と思いました。
そして、今のわたしは、今後の神話研究の一環として、既存の古代料理の再現本に載っていない、神話に出てくる料理の再現に挑戦してみるのもアリかなって思っています。
神話の料理を、現代の現実世界において再現させるのです。
ワクワクしませんか?
以上で、今回の発表を終えます。ご清聴、ありがとうございました」
〈コメント〉
「わたしは、ギリシア神話にあまり詳しくはないので、キルケの話がどんなか知りたかったです」
「古代メソポタミアの再現料理本もあるのか! ギルガメッシュが食べていた料理もワンチャン?」
〈参考資料〉
ホメロス著; 松平千秋 訳,『オデュッセイア』(上),東京: 岩波書店,一九九四年,二五七;二六〇頁.
「キルケ」, マイケル・グラント, ジョン・ヘイゼル共著;西田実 他 訳,『ギリシア・ローマ神話事典 』,東京 : 大修館書店.一九八八年,二二六 ~二二八頁.
アンドリュー・ドルビー,サリー・グレインジャー 共著;今川 香代子 訳,『古代ギリシア・ローマの料理とレシピ』,東京:丸善,二〇〇二年,二二八頁.
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