ギリシア神話を知っていますか?
第22講 古代ギリシアの道シルベ
「みなさん、こんにちは。前回までは、<時>をテーマとして色々と語ってきたのですが、今回の講義では、シリーズとシリーズの幕間として、これまでとは、ちょっと違った趣向のテーマを話そう、と考えています。まずは、このスライドを見てください」
Hermès
1:ハーメス 2:ヘルメス 3:エルメス
「まずは、クイズです。これ、実は固有名詞なのですが、フランス語では、なんて読むか分かりますか? 三択にしてありますので答えてみてください」
隠井は、ミーティング・アプリのアンケート機能の結果をざっと確認した。
「『2:ヘルメス』が、ほぼ五十パーセント、『3:エルメス』が、だいたい四十パーセントってところかな。
さて、最初に先走って、答えを言ってしまうと、正解は、『3』のエルメスです。なんか、モニターの彼方から、不正解者のブーイングが聞こえてきそうな気がするな。たしかに、ちょっと意地悪な問いだったかもしれませんね。だけど、僕は、『フランス語』では何と読むかと訊きました。
フランス語のスペルの読み方ルールでは、英語の『hour(アワー)』がそうであるように、スペルに存在していたとしても、原則、<h>は読みません。読み飛ばすのです。その結果、『Hermès」は、<H>を無いものとしてスキップして、「エルメス」と読むわけなのです。
たとえば、『この前、温泉にいったらしいけれど、何処に行ったの?』ってフランス人に質問すると、大体において『アコネ』って返ってきます。それで、結局、何処に行ったのか分からないので、紙にスペルを書いてもらうと、『Hakone』って綴られているわけで、そこで初めて、日本人は、なんだ『箱根』かよって納得するわけなのです。
多分、フランス人は、<h>を読まないという教育を受けているからだと思うのですが、そのせいで、『Hakone』(箱根)は<アコネ>、『Hikone』(彦根)は<イコネ>、『Hashimoto』(橋本)さんは<アシモト>さんって、発音してしまうフランス人がほとんどなわけなのです。
とまれかくまれ、『Hermès』の発音は、<エルメス>なのですよ。
これで、ピンっときた受講生もいると思うのですが、そうです。エルメスとは、パリのシャン=ゼリゼに本店がある、世界的にも有名な鞄や財布といった皮革製品などのブランドですよね。
もしかしたら、この中には、ネットの掲示板サイトを題材にした小説や、映画、ドラマなどで、<エルメス>のことを知っている人もいるかもしれません。
革製品のブランドの<エルメス>ってのは、この会社の創業者の苗字なのですが、そもそもの話、<エルメス>ってのは、実は、ギリシア神話のオリュンポス十二神の一柱であるヘルメスのフランス語読みなのです。
だから、さっきの三択クイズで、『2:ヘルメス』の解答が多かったのも、まあ、納得で、僕の質問でも、『フランス語では』という限定さえ付けなければ、『ヘルメス』で答えは間違いではないのです。
さてさて、おそらく、ほとんどの受講生は、『ヘルメス』という名を聞いたことがない人はいない、と思います。まあ、知らないのならば、今日、知ってください。
ヘルメスは、ギリシア神話における、オリュンポス十二神の一柱なのですが、その名は、現代日本では一人歩きしている感もあって、つまり、さまざまな虚構作品、いわゆる、ポップ・カルチャー、漫画やアニメ、ゲームなどにおいて、<ヘルメス>という神の名が作中で人名として使われていたり、かの神をモチーフとしたキャラクターが登場したりしているから、名自体は有名なのです。
ところで、みなさん、ギリシア神話を知っていますか?
主神ゼウスやその妻のヘラは知っていても、もしかしたら、それ以外の神様は、たとえば、ヘルメスなどは、名前は聞いたことがあっても、実際に、どんな神様であるか正確に知っている人は、もしかしたら、少数派かもしれません。
たしかに、ギリシア神話について体系的に語るのは非常に難しいのです。というのも、ギリシア神話には、幾つかの神話系統や、さらに、創作神話もあって、それぞれが複雑に絡み合っているからです。
そこで、今回の文化論では、とりあえず、ヘルメスについて語ろうかと思っています。そうは言えども、そのように絞ってみても、実は語れるのは、ヘルメスのほんの一部になってしまうのですが。
ヘルメスは、オリュンポス十二神の一柱で、主神ゼウスの息子です。
しかしながら、ここで注意したいのは、ゼウスの正妻がヘラだからといって、ヘルメスは、ヘラの息子ではない、という点です。
ヘルメスは、マイアという女神の子なのです。要するに、ゼウスの浮気相手の子供なのですよ。
神が持つ能力は、その誕生時の逸話に由来することもあります。
ある時、ゼウスは、父である自分に忠実で、その密命を果たすことができる、そのような<伝令使>になるような神をつくろうとします。そこで、妻ヘラに気付かれないように、夜中に密かに抜け出すことによって、<泥棒>の能力を、そして、浮気をヘラに隠し通すことによって、<嘘つき>の能力を、ゼウスは、マイアから生まれる子供に付与しようとしたのです。
そして、マイアとの間に、ゼウスの目論見通り、泥棒と嘘つきとしての能力に長けた子供が誕生します。
ギリシア神話には、生れたばかりのヘルメスが、アポロンから牛を盗んだものの、盗んでいない、と嘘を吐く逸話があります。
こうして、ヘルメスは、生まれながらにして、<泥棒>と<嘘つき>の属性が備わえて誕生したわけなのですが、さらに、竪琴を作ったことによって、<音楽>や<発明>の属性が、また、ある時には、他も神と作ったものを物々交換することによって、<商売>の属性が、さらに、ヘルメスは、ゼウスの伝令使として、世界各地を飛び回ったことによって、<旅>の神としての属性をも帯びることになったのです。このように、ヘルメスは、実に多面的な属性を持つ神で、簡単には語り尽くせません。
今日のところは、ヘルメスの<旅>の神、旅人の守護者としての側面に着目したい、と思います。さらに、ヘルメスは、旅人だけではなく、通行人、道の守護神でもあるのです。
そして、ヘルメスは、石を取り除いて、道を整備する、と考えられ、古代ギリシアでは、ヘルメス像が、道の端や四辻に立てられ、これは、通行人や旅人にとって、道標や里程標、あるいは、境界石としての役割を果たしていたのです。日本で言う所の、<道祖神>みたいなものですね。
世界中を飛び回る旅の神ヘルメスは、つば広で丸く、羽根付きの旅行帽子、<ぺタソス>を被り、天を翔けることができる、羽根付きの黄金のサンダル、<タラリア>を履いた、<若者>の姿で描かれることが多いのですが、その一方で、若者ではない姿で表象されることもありました。
実は、路傍に置かれたヘルメスの柱像は、<ヘルマ(複数形ヘルマイ)>と呼ばれていたのですが、その像は、上部が髭を蓄えた中年の顔で、下部に膨らんだ男根がついた石柱だったそうです。あるいは、ヘルマは、男根の形だったこともあったそうです。ちなみに、勃起した男根が付いているのは、ヘルメスが豊穣多産の神でもあるからだそうです。
さて、実は先日、十一月の半ばに、ニュースサイトを見ていたところ、こんな記事が目に入ってきました」
隠井は、ニュースの見出しを見せた。
工事中、偶然に発見された古代ヘルメス像の頭部
「記事の内容を要約してみると、ギリシャの首都アテネの中心部、アギア・イリニ広場付近のエオルー通りの地下、一.三メートルのところで、下水道工事をしていた作業員が、ギリシア神話におけるオリュンポス神の、大理石でできた彫像の頭部を、偶然に発見したそうなのです。発見された像は、紀元前四世紀後半から紀元前三世紀のものだったそうなのですが、その保存状態は良好だったようです。この像の頭部は、髭を蓄えていた中年男であったため、当初は、オリュンポスの主神ゼウスのものだ、と思われていたらしいのですが、専門家の調査の結果、ゼウスではなく、ヘルメスの頭部であることが分かった、とのことです。
もうお分かりですよね。この中年姿のヘルメスは、古代ギリシア時代に、道シルベとして用いられていた彫像たる<ヘルマ>なのです。
で、ここで疑問に思うのは、何故に、下水道工事の折に、紀元前の柱像の頭部が発見され、保存状態が良かったのか、という点です。
ギリシャは、ギリシア神話のお膝元で、今なお、オリュンポスの神々を信仰していると思われがちなのですが、歴史の流れの中で、古き神々への信仰は、とうの昔に捨てられています。
現代のギリシャの国教は、ギリシア正教です。
ざっくりと、ギリシャの歴史を見てみると、紀元前一四六年に、ギリシアの有力都市コリントスが、ローマ帝国によって陥落され、ギリシアは、属州アカエアとして、ローマ帝国の勢力下に入ることになってしまいます。とはいえども、ローマ帝国は、属州アカエアにおける、オリュンポスの神々への信仰を許していました。
ここで、時代を少し早送りしてみましょう。
ローマでは、もともと迫害されていた、新興宗教であるキリスト教が帝国の中で勢力を拡大してゆき、なんと、紀元三一三年に、ローマ帝国はキリスト教を公認したのです。そしてさらに、三九二年には、テオドシウス帝が、キリスト教を国教として定めたのです。かくして、ローマ帝国の宗教は、正式にキリスト教になりました。以後、キリスト教を国教としたローマ帝国内では、それまで、信仰の自由を許していた属州においてさえ、キリスト教以外の宗教は、<異教>とされ、禁止されてしまったのです。かくして、ゼウスたち、オリュンポスの神々は、異教の神々とされてしまいました。
だから、キリスト教下のギリシアにおいては、古代の神々の姿を具現化させた彫像は、神の現身として崇められていた宗教的な畏怖を完全に失って、破壊の憂き目にあったようです。しかし、そうした彫像の中には、破壊されずにすんだものの、排水管を構成する壁の中に組み込まれ、単なる材料になってしまった像もあって、あくまでも可能性の一つらしいのですが、どうやら、今回発見されたヘルメスの頭部は、そうして、壁の材料となっていた石像であるようです。しかし、まさに、このことによって、二千年以上前の大理石像を良好な状態に保つのに役立ったのは、皮肉な話のようにも思われますね」
<書籍>
「ヘルメス」,マイケル・グラント, ジョン・ヘイゼル 共著 ; 西田実 ほか共訳,『ギリシア・ローマ神話事典』,東京:大修館書店,1988年.
「十四 ヘルメース、アポローン、アルテミスおよびディオニューソスの誕生」,「十七 ヘルメースの性格と行為」,ロバート・グレイヴズ著;高杉一郎訳,『ギリシア神話』,東京:紀伊国屋書店,一九九八年.
<WEB>
「ヘルメス神像の頭部発掘、紀元前3〜4世紀後半のものか アテネ」,2020年11月16日 13:13;発信地:アテネ/ギリシャ[ギリシャ ヨーロッパ],『AFP』,二〇二〇年十二月一日閲覧.
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