第〇コマの二 百分講義というパラダイム・シフト

 隠井の記憶が確かならば、学部生であった二十世紀末における半期の講義数は十回前後だったはずだ。

 だが、二〇一〇年代始めに教壇に立ってみたところ、半期に十五回の講義を行う事が求められた。これは、学生に対して十分な学修時間を保証する事が目的であるらしい。

 この講義数は、ほとんどの大学が採用しているシステムなので、当局からの指示なのかもしれない。

  

 とまれかくまれ、十五回講義の為に、前期は、四月の頭から七月の末まで、後期は、九月の末から一月の最後まで講義がみっちりと詰め込まれ、さらに、国民の祝日にさえ講義をせねばならなくなってしまった。

 おそらくこの状況は、教員と学生にとってのみ過酷なだけではなく、運営側にとっても厳しい日程であるに相違ない。


 やがて間も無く、二〇一〇年代中盤には早くも、この過密日程を緩和する方策を採る大学が現れ出した。

 すなわち、九十分・十五回とは〈一三五〇分〉の講義時間という事なので、講義時間を十分延長して百分にすれば、半期で〈十三回半〉の講義をすればよい、という計算になる。

 つまり、この方法を用いれば、講義を一回分省く事ができ、結果、期の開始や終了を一週ずらしたり、国民の祝日を、カレンダー通りの休みにする事も可能となる分けなのだ。


 なるほど確かに、言われてみれば、まったくもって単純な方法なのだが、この事に気付いた大学運営の発想は、まさにコペルニクス的転回で、次第次第に、百分・十四回の講義を採用する大学が増えていった。

 そして、隠井が講義を担当している大学においても、昨年度、二〇二三年度から、百分講義を行うようになったのである。


 だが、隠井は、二〇二三年度に関しては、サバティカルの研究休暇だった為、未だ百分講義が未体験なのだ。

 総講義時間数それ自体は変わらないものの、この変更によって、これまで十年以上に渡る経験によって培ってきた九十分・十五回の講義リズムを変えなければならない。それ故に、九十分から百分に講義時間が十分間増えて、いったい何ができるようになるのか、そして、半期十五回の講義回数が一回減って、いったい何ができなくなるのか、その利点も欠点も未だ実感として分からない。


 だがしかし、この時間革命によって、以前ならば、四月の序盤に始まっていた講義開始が四月の十日過ぎ、つまり、これまでよりも開始が一週間遅れる事となり、以前ならば、四月になるやすぐに始めねばならなかった講義準備に余裕が持てているのは確かなのだ。

 この点だけでも、百分講義は否定すべき変化ではないようにも思えるのだが、始まってみなければ炙り出ない問題も多々あろう。


 いずれにせよ、約一年ぶりの講義が来週から再開する。

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