第10講 ジョジョの波乱万丈人生
二〇二〇年七月三十一日――
この日は、七月の最終日であると同時に、今年度の前期講義の最終日でもあった。
隠井が、オンライン・ミーティング・アプリを立ち上げると、既に何人もの受講生が、ホストの承認待ちの状態になっていた。隠井は、自分のメインアカウントとサブアカウントの両方でログインし、ブルートゥース接続のヘッドセットの音声状態を確認してから、ログインの「承認」ボタンをクリックした。
「さて、みなさん、おはようございます、今日が前期の最後の講義です。しっかり、やっていきましょう」
出席の確認後、隠井は、前回の講義内容の再確認から話を始めることにした。
「<George(s)>、アルファベットで、こうスペルを綴る欧州の人名は、英語では『ジョージ』、仏語では『ジョルジュ』になります。これに対して、独語では、スペルは<Georg>、発音は『ゲオルク』になります。いずれの場合も、この人名は、古代ローマ時代の殉教者・聖ゲオルギオスに由来しています。
ここまでが、前回のお話でした。
さて、欧州の人名には、男性名と、それに対応する女性名が存在する事例が結構あるのですが、<Georges(ジョルジュ)>は男性名で、これに対応する女性名は<Georgia(ジョルジア)>です。フランス語圏における『ジョルジュ』が、男性の名前という事を念頭においた上で、次の画像をみてください」
隠井は、ミーティングアプリの画面共有機能を使って、一枚の肖像画を見せた。
この人物は、<George Sand(ジョルジュ・サンド)>という人物で、一八〇四年に生まれ、一八七六年に亡くなった、すなわち、一七八九年のフランス大革命の後、つまり、十八世紀までの古い価値観が転倒した後に誕生した<近代>フランスの作家です。
この人物、女性のように見えます。しかし、『ジョルジュ』という名前は男性名のはず。はたして、この人物は男性なのでしょうか、女性なのでしょうか?
ここまでの数回に渡る講義の中で、<異性装>を扱い、その中で、絶えず、衣装によって自分の性別を欺いていた『シュヴァリエ・デオン』のような人物を取り上げたので、ミスリードされて、ジョルジュ・サンドの身体的な性別を男性かも、と勘ぐった受講生もいるかもしれません。
ごめんなさい。『ジョルジュ・サンド』は、見た目通り、身体的な性別は女性で、本名を、アマンディーヌ=オロール=リュシール・デュパンと言います。
その本名のアマンディーヌは女性名で、ジョルジュ・サンドというのは、いわゆるペンネームなのです。
本名アマンディーヌ・デュパンという人物は、一八二二年に、デュドヴァン男爵と結婚し、一男一女をもうけました。しかし、夫とはすぐに別居し、その後、パリに出ると、一八三一年に、ジュール・サンドーという男性作家との合作で、処女小説を発表しました。その後、一人で作家活動をするようになってからも、サンドという姓を使い続け、この人物は、フランス文学史では、<ジョルジュ・サンド>という筆名で通っている次第なのです。
身体上の性別と筆名を<性転換>させても、文筆活動に集中し、もしも、ジョルジュ・サンドが人前に姿を出さない作家だったとしたならば、ここで話は終わってしまうのですが、このジョルジュ・サンドは、<男装>してパリの社交界に出入りし、公然と人前に姿を現していたのです。これは、革命後の、古い価値観が転倒した近代フランスにおいてさえ、人々の注目を避ける事はできない行為でした。
かくして、アマンディーヌは、ジョルジュ・サンドという男性の筆名で、自分の女性名を覆っていただけではなく、男の衣装によって、自分の女性としての身体さえも纏っていたのです。
ここで注意したいのは、サンドの精神的な性別が男性、いわゆる<性同一性障害>であるが故に、男性として振舞おうとしていたかというと、そういうわけではありません。
実は、ジョルジュ・サンドは、社会活動家として、男女同権活動に身を投じていました。活動家でもあったジョルジュ・サンドは、歴史の教科書の中では、<初期のフェミニスト>というレッテルが貼られています。
このように考えると、ジョルジュ・サンドが、<男性名>を用いて、かつ<男装>していたのは、男性と同一の権利を要求するための、ある種のポーズだったのかもしれません。
男女同権運動とは、一例をあげると、女性の参政権の要求のことです。ちなみに、フランスにおいて、女性に参政権を与える<婦人参政権法案>が採択されたのは、第二次世界大戦後の一九四五年、ジョルジュ・サンドの活動から百年の時間を必要としました。
さて、それでは、ジョルジュ・サンドは、ただのカチコチの活動家だったかというと、そうではなく、彼女の私生活は波乱万丈なものでした。
この男性名の<男装>の作家は、恋多き女性として自由恋愛に身を委ね、様々な男性、例えば、詩人のアルフレッド・ミュッセ、医師のパジェロ、音楽家のフランツ・リストとの間に浮名を流していたのです。
そのジュルジュ・サンドの恋愛の中で特に着目したいのは、ポーランドからフランスに亡命していたショパンとの恋愛です。
最初にサンドと出会った時、ショパンのサンドに対する印象は最悪で、嫌悪感すら抱いていたことが、ショパンの書簡によって窺い知る事ができます。
しかし、その嫌悪は、いつしか恋慕へと転換し、ジョルジュ・サンドとショパンは、一八三八年にスペインのマジョルカ島に逃避行したり、その後、パリで同棲したり、隣り合った建物、いわゆるスープの冷めない距離に住んだり、中部フランスのベリー地方に位置するノアンという、ジョルジュ・サンドの祖母の館があった地で共に過ごしたり、このように、数年に渡ってサンドとショパンとの蜜月は続きました。そして、ジョルジュ・サンドはショパンのミューズとなって、かくして、「ピアノの詩人」ショパンは、数多の作品を世に出していったのです。
しかし、フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドとの恋愛関係もついには終わりをつげ、二人は一八四七年に別れることになります。
そしてその直ぐ後、一八四九年十月十七日、ショパンは三十九年の人生の幕を閉じ、ジョルジュ・サンドと永遠に別れる事になりました。ショパンの葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、葬儀の際には、モーツァルトのレクイエムが流されたそうです。
実は、僕、フランス留学中に、ベリー地方に一週間ほど滞在した事があるのです。その滞在期間中、日本人どころか、東洋人も全くみかけませんでした。フランス語を話す東洋人が珍しかったのかもしれませんが、旅行中、地元の方々、本当に親切でしたよ。この事も、機会があったらお話したいと思います。
さて、その時の事なのですが、滞在の拠点としていたイスーダンという町から、少し足をのばして、<ノアン>に行ってきました。
祖母の館があったノアンで、ジョルジュ・サンドは幼年期を過ごし、さらに、サンドの数多くの作品は、このノアンで書かれました。ショパンもまた、ノアンに滞在し、ここで数多くの作品を生み出していったのです。
このノアン、シャトールーという駅で降り、そこから、三十分ほどバスに乗れば到着できます。ただ、バスの本数が圧倒的に少ないので、数時間に一本のバスに乗り遅れた場合、洒落では済まない事態になるので、帰りのバスの時刻に注意を払いながら観光した事を今でも覚えています。
ノアンを訪れたのは、今から約二十年前の事になるのですが、若かりし日の僕は、ジョルジュ・サンドとショパンにとって、芸術的創造のトポスであったノアンを、どうしても訪れたかったのです。
さてさて、例年ならば、これから二ヵ月間もの長期夏季休暇を迎える大学生諸君に対して、この期間に沢山本を読もう、そして、時には、いったん本をおいて、旅に出よう、とお話することにしています。
旅というのは、確かに初見の驚きによる感動もあり得ますが、僕は、旅をするのならば、その地や、その地にまつわる情報を可能な限り収集した上で旅する事を推奨しています。つまり、自分の内に蓄えておいた情報や知識が、実際にその肉眼で現物を視認した時に起こり得る化学反応を重視しているからです。
旅は、知識があるからこそ楽しめるのです。
しかし、現状は、旅に出ずらい状況かもしれませんが、この時期に、沢山本を読んで、沢山思考して、様々な情報や知識を蓄えていただけたらと思います。
それでは、秋学期に、元気に再会いたしましょう」
これは、隠井にとっては予想外の事態だったのだが、何人かの受講生が、ログアウトする前に、ミュートを解除して、「ありがとうございました」と言ってきてくれた。
これに、ちょっとウルっときてしまった隠井であった。
とまれかくまれ、こうして、二〇二〇年度の前期講義は終わりとなったのだった。
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