第09講 ゲギの数奇な一生
英 :Henry;Charles;George
隠井は、ミーティングアプリの共有機能の一つ、ホワイトボードに、人名のスペルを三つ書いた。
「さて、誰かにこのスペルを読んでもらおうかな、英語読みでお願いします」
隠井は、参加者リストの中から、アトランダムに受講生の一人を選び出して、ミュート機能を解除して、この三つの人名を発音してもらった。
「えっと、ヘンリー、チャールズ、ジョージかな」
「はい、ありがとう。じゃ、ちょっとだけスペルを修正するね」
英(仏):Henri;Charles;Georges
隠井は、一番上の行の英語のスペル、最初の人名「Henry」の「y」を「i」に、最後の人名「George」の語末に「s」を付け加えた。
「これ、さっきの英語の人名の、フランス語におけるスペルです。少しだ違いますね。さて、このようにスペルは微妙な変化なのですが、発音はかなり違います。じゃあ、僕が左から読んでいきましょうか。
英語の『ヘンリー』は、仏語では『アンリ』、英語の『チャールズ』は、仏語では『シャルル』になります」
「あっ! なるほど、そういうこ…………」
音声をミュートにし忘れていた受講生の一人から驚愕と納得の声があがった。
その声が受講生全員に響き渡ってしまったため、その受講生は慌てて音声を完全に沈黙させたようだった。
「心の声ではなく、実際に声が出ちゃったね。とまれ、気が付いた人、いたみたいだね。世界史で、イングランドやフランスの王様の名前を沢山覚えた事と思います。つまり、ヘンリーのフランス語読みがアンリで、チャールズのフランス語読みがシャルル、こうして、カタカナではなく、スペルで見ると明らかですが、これ、単なる同じ名前の英語読み仏語読みって話だったのですよ。ちなみに、<Charles>は、ドイツ語では、こう書きます」
隠井は、「Charles」の下に次のように書いた。
Carl
「ドイツ語では『h』が脱落していますが、これ、シャルルやチャールズと同じ人名を指します。ただし、読み方は全く異なります。誰か、分かる?」
青い挙手のアイコンが一つ現れた。
「『カール』だと思います」
「まさに、そのとおぉぉぉ~~~~り。シャルルマーニュの事を、カール大帝と呼ぶことから、ピンときたのかな? つまるところ、チャールズの仏語読みが『シャルル』、独語読みが『カール』って事なのですよ。実を言うと、同じスペルの人名が、国というか、言語によって読み方が異なるケースって結構あります。まあ、簡単に言ってしまうと、漢字における日本語の音読みや訓読み、あるいは、中国語読みと日本語読みに状況は似ていて、これに類似する事例、身近にもあるかもしれませんね。さて、ここからが今日の話の本題です。わざとスルーした、『George(s)』に話題を移すことにいたしましょう」
隠井は、この日の話の本番前に、一時的に音声をミュートにして、飲み物を一口含んだ。
「再確認ですが、単語末に『s』が入るか入らないかという違いはあっても、この人名、英語読みは『ジョージ』で、仏語では『ジョルジュ』です。先ほどの二つに比べると、英語では伸ばしている所を、仏語では<ル>って呼んでいるだけで、音としては微細な変化ですよね、ちなみに、この人名は、イタリア語では、<Georgo(ジョルジョ)>、これも発音は想定内ですよね。だがしかし、ドイツ語やブルガリア語、あるいはルーマニア語ではこうなります。
ドイツ;Georg ブルガリア;Georgieva ルーマニア:Gheorghe
「で、問題は読み方、ドイツ語は『ゲオルク』、ブルガリア語は『ゲオルギエヴァ』、ルーマニア語では、スペルの中に<h>が入っていますが、読み方は『ゲオルゲ』です。
このように、同一のスペルなのに、英語、仏語、伊語では<Geo>は『ジョ』、独語、ブルガリア語、ルーマニア語では、同じスペルが『ゲオ』、つまり、仏語系が<ジャ行>、独語系が<ガ行>といったように、カタカナだけを<読んだ>り、音だけを<聞いた>場合には、これが同じものを指しているとは容易には想像できないかもしれませんね。とまれかくまれ、『ジョルジュ』にせよ、『ゲオルク』にせよ、実は、この名は、ギリシア語の人名を起源にしています。つまり、ソースは同じなのです」
ギリシア:Georgios(ゲオルギオス)
「音だけだと、ブルガリア、ルーマニア、ドイツと同じ、『ゲ』、ガ行ですね。読み方の違いはあれど、このギリシア語起源の人名が、欧州中に広まっているわけで、その理由は、キリスト教の聖人の中に『聖ゲオルギオス』という人物がいたからなのです。前置きが相当長くなったのですが、ようやく、ここまでたどり着けました。
ギリシア語では、もともと、<geo>は『大地』を意味し、<erg>は「人」、つまり、<Georgios>とは『農夫』を意味していました。
さて、この<セイント>ゲオルギオスは古代ローマ時代末期の殉教者なのですが、三世紀の後半に、ギリシャ系貴族のキリスト教徒の家庭に誕生したそうです。ローマ人なのに、ギリシャ名なのは、それ故ですね。彼が殉教したのは、三〇二年に、ローマ皇帝ディオクレティアヌスが、ローマ軍のキリスト教徒全員を逮捕して、キリスト教を捨てる、いわゆる<棄教>を強要したのに、これに従わず、キリスト教に殉じたため、死後、聖人の列に加えられたのです。
このゲオルギオスは、西方教会では十四救難聖人の一人に数え上げらています。西方のイングランドでは守護聖人になっていて、イングランドで、ジョージという名の王が多い理由もこれで納得できるかと思います。ちなみに、フランスのメロヴィング朝の家系図では、ゲオルギオスを祖としているそうです。また、西方だけではなく、東方のモスクワにおいても聖ゲオルギオスは守護聖人になっていて、つまり、西欧では東西を問わず、兵士や農民の守護聖人となっています。
さてさて、この聖ゲオルギオスを、さらに有名にしているのは、キリスト教の聖人伝『黄金伝説』、その第五十六章「聖ゲオルギウス」の中で語られている次の伝説です。
カッパドキアの首府ラシアの近隣に、巨大な悪竜が住んでいました。住民は、毎日二匹ずつの羊を竜に捧げる事によって、悪竜がもたらす災厄を避けてきました。
しかし、です。
ついに生贄の羊を全て捧げ尽くしてしまい、人間を生贄として差し出さざるを得なくなりました。差し出すべき人物は、公平にくじで選んだのですが、なんと、生贄のくじを引き当てたのは王の娘でした。
ちょうどその時、ローマの軍人にして熱心なキリスト教徒ゲオルギオスが、偶然、ラシアに立ち寄り、その悪竜退治を買って出たのです。
ゲオルギオスは、見事、竜を退治し、姫を救出すると、なんと、倒した竜を馬替わりにして戻ってきて、こう言ったそうです。
『キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう』
かくして、ラシアに住む異教徒達は、キリスト教に改宗したそうです。
まあ、物語としては、竜退治と姫救出までは良いとして、最後のキリスト教への改宗強要の話は、現代的な観点から言えば、単なる脅迫、宗教的ハラスメントにも思えますが、『黄金伝説』は聖人伝なので、いかにもな話という事で納得してください。初期のキリスト教では、キリスト教からみて異なる神々を信じているという意味での<異教徒>をキリスト教に改宗させることが命題だったので、こういうオチに帰結するのは、聖人伝的必然なのです。ちなみに、この竜の奇跡の記念日は<十月二十七日>だそうです。
再確認ですが、<Georgios(ゲオルギオス)>、独語系では「G」を、『ゲオ』や『ギ』といったように<ガ行>で発音するので『ゲオルク』、これに対して、英語・仏語では、『ジョ』や『ジィ』と<ジャ行>で発音する事によって「ジョージ」あるいは『ジョルジュ』という読み方の違いが生じています。
こう言ってよければ、竜退治をし、後に殉教した、聖ゲオルギオスの数奇な一生は、ドイツ語風に発音し、彼を<愛称>で表現すると、『ゲギの数奇な一生』、英語・仏語風の愛称で言うと、『ジョジョの数奇な一生』と呼び得る物語になっているように思われますね。あれっ!」
隠井は、ここで時計を確認した。
「すみません、みなさん、ここからシリーズで展開してきた、『フランス<男装>史』のまとめの話に入ろうとしたのに、ゲオルギオスの話で、かなりの時間を使っちゃいました。う~~~ん、続きは次回、前期の最終講義の際に、ということで」
ここで時間がきて、ミーティングアプリが自動的かつ強制的にオフになってしまった。
「やれやれだぜ」
隠井は、少し身体を後方に反らし、右手でPCのモニターを指さしながら、そう呟かざるを得なかったのだった。
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