第2レポ 京都の冥府の出入口:六堂珍皇寺と福生寺跡

 隠井は、八月末日を、第二回目の夏のレポートの〆切日に設定したのだが、「京都の五山の送り火」について考察した学生が、今回も京都を題材にした別テーマでレポートを書き送ってきた。


          *


 日本史コースの二川奈緒です。


 私のお盆の時期の京都旅行には、〈京都五山送り日〉の見物以外にも別の目的もあって、それは〈冥府〉からの出口を実際に訪れてみる事でした。


 仏教の教義において、衆生(しゅじょう)、すなわち、人間を含む、生命ある生きとし生ける全ての存在は、生前の因果応報によって、生と死、そして再生を繰り返しながら流転してゆきます。これこそが、いわゆる〈輪廻転生(りんねてんせい)〉です。

 衆生の転生先には、六つの迷いの世界があるのですが、それが〈六道(ろくどう)〉で、その六つとは、天道、人間道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道です。

 前半の天道・人間道・阿修羅道が〈三善道〉で、後半の畜生道・餓鬼道・地獄道が〈三悪道〉です。場合によっては、阿修羅道は、悪道の方に含まれて、〈四悪道〉とされる事もあるそうです。


 さて、京都市東山区、すなわち、清水寺の近くの松原通りには〈六道の辻〉を表わす石碑が置かれているのですが、その六道の辻とは、先に述べた六つの〈道〉への分岐点を意味しています。

 その石碑は、〈六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)あるいは(ろくどうちんこうじ)〉の前に置かれているのですが、ここら辺が六道の辻になっているのは、平安時代に、この地が平安京の東の墓所であった〈鳥辺野〉の入口で、京都の東の墓所への入口こそが、この世とあの世の境界だと考えられていたからなのです。


 さらに、六道の辻は、現世から冥界への入口だとも信じられてきました。

 それは、平安時代の人、小野篁(おののたかむら)(八〇二~八五二)が、毎夜、冥府に通うために、六道珍皇寺の境内にある井戸を通っていたからなのです。ちなみに、生の世界から死の世界に入るための井戸は「死の六道」と呼ばれています。

 今現在、この「冥土通いの井戸」は、その井戸の近くにまで行く事はできず、普段は、格子窓から遠巻きに井戸を見れるだけなのですが、年に数回、特別公開されます。

 私は、高一の時に京都に家族旅行をした時に、特別公開日に冥土通いの井戸の近くにまで行った事があります。


 この時、私が抱いたのは、この井戸を通って、小野篁が冥府に行った事は分かったのですが、冥府からの戻りも果たしてこの井戸を使ったのかどうか、京都の他の何処かにも、冥府への出入口があったのかどうか、という疑問でした。


 宿に戻ってからネットで調べてみた所、この六道珍皇寺の冥土通いの井戸は、小野篁が冥府に赴く際に使った、冥府への入口であって、この世に戻ってくるための、冥府からの出口は別の場所、京都の右京区の嵯峨野にあったらしいのです。


 嵯峨野にも、その昔、鳥辺野のように葬送地があって、嵯峨野の方の墓地は〈化野(あだしの)〉と呼ばれていたそうです。

 さらに調べてみたところ、その冥府からの出口は、〈福生寺(ふくしょうじ)〉に在った井戸で、小野篁は、嵯峨野の井戸から、この世に戻ってきた、との事でした。

 この世に戻るということは、死の世界から生の世界への帰還を意味するので、この井戸は〈生の六道〉と呼ばれていたそうです。


 高一の旅行の際に、その福生寺に行って、〈生〉の方の井戸も見てみたかったのですが、二つの理由から見ることはできませんでした。


 一つは、その時の家族での京都旅行のスケジュールでは、嵐山・嵯峨野方面に行く予定がなかった事で、そしてもう一つの理由は、福生寺が既に存在しなかったからでした。


 そして今年、大学生になった私は、京都に一人旅をしてみる事になって、改めて、小野篁の冥府への出入りについて、図書館で調べてみた所、嵯峨野の福生寺は明治時代に廃寺になって、一八八〇年、つまり、明治十三年に、嵯峨薬師寺と合併されたそうなのです。

 

 そこで、今回の京都旅行では、嵐山・嵯峨野方面に行った際に、嵯峨薬師寺に行ってみる事にしました。


 嵯峨薬師寺は、嵯峨野の〈清涼寺〉と同じ境内にあって、本堂の左手に、豊臣秀頼の首塚があるのですが、首塚の左にあるお寺が薬師寺でした。

 首塚のすぐ脇の建物の左端に、「生の六道」「小野篁」「遺跡」の文字が刻まれた石碑が一つ在って、私はついに念願が叶った気になりました。

 しかし、廃寺になった福生寺は、嵯峨薬師寺と合併したものの、元々は、この地に福生寺があった分けではないので、当然、石碑だけで、井戸は存在しません。


 元々の福生寺って何処にあったのだろう、と疑問に思いながら、私は、嵯峨清凉寺を後にし、近くの大覚寺に歩いて向かう事にしました。


 清凉寺の駐車場から出て、〈宇多野嵐山山田線〉という府道を通って、信号がある〈大覚寺門前〉という十字路にまで至った時です。右手に、狭い空き地があって、幾つもの石碑が見えたので、そこにも立ち寄ってみる事にしました。


 すると、です。

 そこに在った幾つもの石碑には、「左化野」、「右愛宕」、あるいは「生の六道延命地蔵」という文字が刻まれていて、空き地に入ってみると「六道の辻」という文字が刻まれた石もありました。

 ということは、五条の松原通りの六道珍皇寺と同じように、ここもまた、六道の分岐点なのでしょう。

 その空き地には、「鬼谷橋(おにたにばし)」という名の、小さく短い橋もありましました。


 さらにです、空き地の奥まった所には、なんと井戸のような物さえあったのです。


 そこで、スマフォの地図アプリで、現在地を確認してみたところ、その時、私が居たのは「六道の辻(福生寺跡)」という事が知れました。


 私の事前調査では、嵯峨薬師寺に「生の六道」の石碑がある事までは確認できたのですが、明治時代に廃寺になった福生寺が、かつて嵯峨野の何処にあったかまでは分かりませんでした。もしかして、現代では住居か何かになっているのではないかって思っていたのですが、それが、こんな風に偶然、大覚寺へと続く道の入口で福生寺跡地が見つかるなんて、これは予想外の喜びでした。


 これで、冥府への入り口である、東山の〈死の六道〉と、出口である嵯峨野の〈生の六道〉の井戸を見る事ができ、私は、今回の京都旅行の目的を、また一つ果たせた気になりました。

 この時には、です。


 このレポートを書きながら、入口が清水寺の近くで、出口が嵯峨野って、入口と出口があまりにも遠すぎないか、って疑問を抱きました。


 嵯峨野は、京都市内からバスで一時間の距離なのです。


 そして、ネットでちょっと検索を掛けてみたところ、なんと、六道珍皇寺には、冥府への入口である〈冥土通いの井戸〉だけではなく、その出口である〈黄泉がえりの井戸〉もあるそうで、その出口の井戸は二〇一一年に発見されたそうです。

 当然、それ以前に出版された本に、その発見の事実が書かれているはずはありません。

 だからなのです。

 私は、六道珍皇寺の〈黄泉がえりの井戸〉を、うかつにも観ないまま東京に戻ってきてしまいました。


 京都を再訪する時に、未見の六道珍皇寺の〈黄泉がえりの井戸〉を観る、という宿題ができてしまったのですが、ふと思ったのは、もしかして、宮廷人でもある小野篁は出口が嵯峨野だとあまりにも遠すぎるので、入口すぐ近くに、その出口の井戸を〈DIY〉したのかもしれないなって。


〈参考資料〉

〈WEB〉

「六道の伝説」、『大椿山 六道珍皇寺 公式サイト』、二〇二二年九月二日閲覧。


          *


 読み終えた隠井は思った。

 出口の井戸作りを〈DIY〉って、その表現オモロいな、と。

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