第07講 エオニズム

「さて、講義を始めましょう。この科目では、通信状況の問題で参加できなかったとしても、不都合が生じないように、一回<聴き切り>講義にしています。とは言えども、数回を一つの単位として、緩いテーマは設けています。それが今回は『フランス<男装>史』なのです」

 一時的にミュートにして、隠井は一口水を含んだ。

「前回取り上げた内容を覚えているかな? 覚えていたら<挙手>のボタンを」

 一斉に青い掌のアイコンが画面右端に出現した。


「さすがに、みんな覚えているみたいだね。そう、ジャンヌ・ダルクでした。そのジャンヌが処刑された理由は<男装>だったのですが、で、ちょっと前回を振り返ってみると、<男装>が何故にキリスト教にとって罪であったかの説明が足りませんでした。まずそこから入ってゆきましょう。それでは画面に注目してください」

 隠井はパワーポイントを立ち上げ、一枚目のスライドを見せた。


 女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌み嫌われるからである。(『旧約聖書』の「申命記」二十二章五節)


「これは『旧約聖書』の「申命記」からの抜粋なのですが、『旧約聖書』は、ユダヤ教のみならず、キリスト教の聖典でもあるのです。つまり、男性が女性の装い、あるいは、女性が男性の装いという、いわゆる、性別とは逆の衣装を着る<異性装>は、聖典のこの個所に抵触してしまうわけなのです。そして、軍服は男性の服装とされていました。そのため、オルレアンやコンピエーニュにおいて、軍服や甲冑を身に纏い、さらにルーアンの獄中で、何故か男の服を着ていたジャンヌは、女性の身でありながら、男の衣類を着ていた、<男装>ゆえに罰せられた次第なのです。もっとも、これは百年戦争末期、十五世紀前半の話で、時代が経ると、<異性装>についての観念は変化し、異性の衣類を着ていたからといって、罪には問われなくなったようです。それでは次のスライドを見てみましょう」


 隠井が見せたのは、貴族と思しき人物の左半面の横顔であった。

「さて、この人物の名は<シュヴァリエ・デオン(1728~1810年)>と言います。名前を聞いた事ある人いるかな?」 

 数名から青き手が挙がった。

「知っている人もいるんだね。漫画かアニメ、あるいはゲーム経由かな? とまれ、この人物は、幾つかの虚構作品において題材にされるような人物なのです。興味ある人は、後で検索してみてください。さて、この人の本名は、シャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモンです。さすがに長いので、この講義では、通称の<シュヴァリエ・デオン>を使うことにします。デオンは、十八世紀半ば、国王で言うと、<ルイ十五世>時代の、とりあえず、外交官という事にして、時代を追って、デオンの半生を見てゆくことにしましょう」


 1756年:「ル・スクレ・デュ・ロワ」に加入


「デオン、二十八歳の時のことです。彼は、とある秘密組織に加入します。これは、ルイ十五世の私的な諜報機関で、訳すと<王の秘密>、そのまんまですね。そして、<王の秘密>の諜報員となったデオンは、ルイ十五世から、ロシアの女帝エカテリーナに謁見し、ロシアの親フランス派に接触するという秘密指令を受け、ロシアに派遣されます。さて次のスライド」


 デオン、リア・ド・ボーモンという名で女官としてロシア宮廷に潜入


 ここで、男であるはずのデオンが「女官」ってどういうことって疑問に思った人もいるかと思います。実は、デオンの容姿は女性的だったそうで、彼はこの美貌を利用して女装し、女帝付きの女官として、ロシア王室に潜り込んだそうです。やがて、リアとしての諜報活動を終えたデオンは、1761年にフランスに帰国します。


 1763年~:デオン、全権大使としてロンドンに


 その後、デオンはロンドンに派遣され、この時にも諜報活動を行います。

 ロンドンの全権大使としてのデオンは、常に竜騎兵の制服を着用していました。にもかかわらず、ロンドン中に、デオンが女性ではないかという噂は広まっており、賭けの対象にされる程だったそうです。


 1774年:ルイ十五世崩御、諜報活動の終了、カミングアウトしてフランスに帰国


 国王ルイ十五世が死去すると、国王の私設諜報機関の一員であったデオンの役目も終わります。そしてこの時、デオンは、なんと、自分が、身体的に女性であると告白したのです。これは、デオンの自伝からの抜粋なのですが、「自分は女性として生まれたが、父親が、財産相続のために、自分を男として育てた」と述べています。

 そして、新たに国王となったルイ十六世は、このデオンの主張を受け入れます。ロンドンからフランスに戻ったデオンは、以後、女性として生活を送ることになります。


 ルイ十六世時代;フランスにて<男装>して生活

 

 しかし、です。

 身体的に女性として認められ、女性として生活することが可能になったというのに、デオンは、男の衣服である軍服を着用することを好んでいたそうです。

 ちなみに、こんな逸話があるそうで、軍服を着ているデオンを目にした王妃マリー・アントワネットは、「ドレスがなく男装しているのは気の毒だ」と同情して、デオンに豪華なドレスを贈ったそうです」


 1785~1810年:デオン、イギリスへ、女性としての生活 


 まず、この二枚の絵を見てください。一枚目は、先ほど見せた左面の男の顔と反対、右半面の横顔です。気付いたかな? 実はこれ、デオンの横顔です。肖像画から察するに、割と年齢がいっているように見えます。可能性としては、フランス革命直前にイギリスに再渡航した時のものかもしれません。そして着目したいのは、身に着けている衣類も女性のそれになっています。

 そして、もう一枚がこれ、フェンシングの試合の様子です。右側の女性の衣類を身にまとっている方が、デオンで、これは一七八十年代末期のものだそうです。

 つまり、革命直前にフランスを離れたデオンは、フランス時代とは違って、イギリスでは、女性の衣服を身に着け、女性として生活していたようです。

 もう一度、二種類の横顔の肖像画を観てみましょう。デオンは、ルイ十五世時代のその前半生は、社会的性別は男性として過ごし、ルイ十六世時代と大革命以後の後半生は、社会的性別も身体的性別も女性として過ごしました。その象徴が、左半面の男性の横顔と、右半面の女性の横顔の肖像画でしょう。しかし、デオンの性別と服装の遍歴は、もうちょっと複雑なので、ここでまとめておきましょう。


   時期・場所:性別<衣服>

   誕生~:女性<男装>

  <ルイ十五世時代:1756年~>

   ロシア:男性<女装>

  イギリス:男性(噂:女性)<男装>

  <ルイ十六世時代:1774年~>

  フランス:女性<男装>

  <大革命前後:1785年~>

  イギリス:女性<女装>


 この一覧によれば、革命前後の二度目のイギリス時代を除いて、周囲から信じられている、こう言ってよければ、社会的な性別と、それぞれの時期に、デオンが身に着けている衣類の性が全て逆になっていて、時期ごとに、性別と服装を次々と転じていって、ほとんど常に、性別と服装が逆になっています。こう見ると、性別と衣類が一致しているのは、大革命の前後の二度目のイギリスにおいてだけでした。

 しかし、です。

 一八一〇年に英国で死去した際に、デオンを解剖した外科医はこう証言しました。

 デオンは解剖学的には男性だったそうなのです。

 なんと、大革命後の英国においてさえ、デオンは、自身の性別を偽って、<女装>して暮らしていたのです。

 それでは、最後のスライドにいきましょう。


 「エオニズム」:ハヴロック・エリス(1859~1939年):英国生まれの性科学者・心理学者


 この学者は、自身の研究の中で、男性が<女装>を、女性が<男装>をする、このような心理状況を、件のシュヴァリエ・デオン(Chevalier d'Éon)の名を参照して、<エオニズム>と命名しました。あまり、流通はしなかったようなのですが。 

 ちなみに、横文字の「d'」は、貴族を表わす前置詞なので、それを取り除いた「エオンÉon」というのが、この人物の姓なのです。

 この<エオニズム>という用語を知っている心理学関連の人も、これを単なる<異性装>、本来の性別とは逆の衣類を着る事、特に男が女装をする際の心理的事象として捉えているようです。

 しかし、です。この講義において、簡単ながらも、シュヴァリエ・デオンの生涯を追った結果、<エオニズム>が内包している意味は、もっと違う様相を示しているように思われます。

 シュヴァリエ・デオンは、周囲が男性とみなしている時には<女装>を、周囲が女性とみなしている時には<男装>をといったように、それを何度も繰り返し、その生涯においてほとんど常に、社会的性別と衣類を逆転させているのです。まるで人生という<ランウェイ>において、次々に衣類を脱ぎ捨てているかのようにさえ思えてしまいます。

 このように見てゆくと、デオンに由来する<エオニズム>という心理学用語は、単なる性別と衣類の逆転という<異性装>だけを意味しているのではなく、社会的性別とは逆の衣類を身にまとう事による社会に対する反抗を意味しているようにも思えます。しかも、社会的性別と衣類が一致していたように思われる後半生においてさえ、エオンの身体は実は男性で、<女装>して社会を欺いていたのです。まさしく、衣類による社会的反抗、これこそが<エオニズム>の本質なのではないでしょうか。


 時間になりました。講義を終えましょう。

 今日の話は、あくまでも、デオンとエオニズムを題材にした僕の思考遊戯の一例です。今回の講義内容をレポートの題材に選ぶ受講生もいると思います。どのように考えるかは君たちの自由です。面白いレポートを楽しみにしています。

 それでは。

 

 講義終了後、一本の短いチャットが隠井の許に届いた。

「まるで天使ですね」

 なるほどね。天使は本来性別を持たず、その姿は、見る者によって男にも女にもなるわけだからな。

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