ドクター・ライジーンの文化史講義の実況中継

隠井 迅

令和元年度(2019年度)

第1講 クリスマス・イヴ

「みなさん、おはようございます。メリー・クリスマス・イヴ、十二月二十四日です。みなさんの今日の予定はどうなっているのでしょうか?」

 タイマーをセットしているテレビのスイッチが自動的にオンになり、目覚ましとして利用している朝のニュース担当のアナウンサーの言葉が耳に入ってきた。

「おい、ちょっと待てよ、『おはようございます……イヴ』だって? 今、このコ、変こと言わなかったか?」

 普段は、テレビの音声だけでは目覚めることができず、短い二度寝を貪ってから、十五分後にセットしてある携帯のアラームの三度目のスヌーズでようやく布団から気力を振り絞って抜け出すのが「いつもの」パターンなのだが、今日の隠井は、アナウンサーの開口の言葉で完全に覚醒してしまった。

「拡散力のある、テレビのような媒体の人間が、こんなこと言うから、間違いが世の中に蔓延するんだよ、よし、今日の講義で話す内容決めた」

 そう独り言ちながら隠井は身支度に取り掛かった。

 

 出向先への移動の地下鉄で目を通していたSNSにおいても、昼間から「メリー・クリスマス・イヴ」という呟きを幾つも見かけ、隠井の使命感は更に強まったのだった。


「え~~~、クリスマス・イヴに授業すんのぉぉぉぉぉ、休講にしようよ、ライジーンちゃん」

 幾人もの受講生から、前回の講義の最後に不平不満を散々に言われた。

 隠井が火曜日に出向している大学の二〇十九年度の年内最後の講義日は十二月二十四日に設定されていた。講師側としても、何もこんな日に、と思わなくもないが、こちらは仕事でやっているのだ、軽率に休みにできるものではない。

「うるさい、大学生なんだから、休む休まないは各自判断で! あと『ライジーンちゃん』じゃなくて、『隠井先生』だろっ!」

 隠井の姓名は隠井迅(かくらい・じん)なので、受講生の中には彼を『ライジーン』と呼ぶ者もいた。学生に何度か注意を与えてはいるものの愛称で呼ばれることは、実はまんざらでもないの隠井であった。

 その都内所在の大学の四時限目の講義は十六時四十分に終わるのだが、十六時二十分 ―― 残り二十分という所で、隠井はテクストを閉じて語り出した。

 窓の外に目を向けると、茜色と闇色がちょうど最後の鎬を削っている時間帯で、徐々に闇色がその勢力を増しつつあった。

「みんな、今日はクリスマスの前日という忙しい日に、僕の話を聴きにわざわざ来てくれてありがとうぅぅぅぅ。講義ってのはさ、ライヴと同じで、君たちオーディエンスがいて初めて成り立つんだよ。今日、一人も来なかったらどうしよう?って、実は冷や冷やだったんだぜぇ。教壇に立ってる時ってのはさ、気持ちはステージ上の<演者>と同じなんだよ」 

「どうせサークルのクリパが六時からだから、ライジーンちゃんの話をきいてからでも間に合うんだよ」

 と最前部にいる女学生から声が掛かった。

「ついで的なことは言わなくていいの。あと『ちゃん』付けすんな。まあ、お約束の掛け合いはここまでにして、ところでさ、みんな、未だ『クリスマス・イヴ』じゃないって分かってる?」

 教室にいる全員の目が点になった。何人かがスマホをカバンから取り出し日付を確認しだした。講義中は、何かを調べる必要がある特別な場合を除いて、スマートフォンの類はカバンの中にしまわせている。講義に集中させるためだ。だが、今回はスマフォを取り出した学生を隠井は咎めなかった。

「ジンちゃん、勘違いだって。ほら、二十四日で間違いないよ」

 教壇前、最前ドセンにいた学生がスマフォの画面を隠井に見せた。

「二十四日ってことはわかっているって。オッケー、それじゃ、語ろうか」

「『クリスマス』ってのは、もともと『キリストのミサ』って意味で、イエス・キリストの降誕祭のことなんだ。で、ほんと言うと、イエス・キリストの誕生日ではないんだよ」

「へぇ~~」

「とりあえず、話が複雑になるといけないので、十二月二十五日がイエスの誕生日ということにして話を続けよう」

「先生、じゃあ、なんで誕生日の前日の『イヴ』を祝ってんの?」

「いい反応。それが今回の話のキモなんだよ」

 隠井はネクタイの位置を直しながら続けた。

「キリスト教が使用している暦、いわゆる<教会暦>では、一日の境目は日没時という自然の時刻なんだよ。つまりさ、<教会>における一日の<境界>は日没なんだよ」

 しばし教室を沈黙が覆った。

「わかりにくい、おやじギャグはいいって」

「『おやじギャグ』じゃない。同音異義語を駆使した言語遊戯と言え。閑話休題、話を戻そう」

 隠井は水を一口含んだ。

「つまり、さ、教会の暦では、一日の始まりと終わりの基準は太陽が沈んだ時なんだよ。ここで普段、我々が使っている二十四時間制の時刻とのズレが生じるんだ。二十四時間制では未だクリスマスの前の日、つまり二十四日でも、教会暦では二十四日の晩は既にクリスマスになっているってってワケなんだ」

「へぇぇ~~」

「そういった次第で、日付的には前日だけど、クリスマスが始まっているという点において、二十四日の夜が『クリスマス・イヴ』として重要視されているんだよ。そもそもの話、クリスマス・イヴの『イヴ』ってイヴニングの意味で、日が暮れてから寝るまでの我々の活動時間がイヴニングのことだし、つまりさ、日付的には同じ二十四日でも、太陽が完全に沈む前は未だ『クリスマス・イヴ」ではないって話なのさ」

「へぇぇぇ~~、なるほどね」

 感心している受講生がいる一方で、ぼそっと「んなの、どっちでもよくね?」という呟きが隠井の地獄耳に届いてきた。

「あのさ、たしかに、語源や起源なんて、あるいはキリスト教的背景なんて知らなくても生きていけるし、クリパも楽しめるよ。でもさ、教養として色んな事を知っていると生活がより充実するって事なんだよ。僕は大学の講師だし、語っている蘊蓄ってつまりそういうものだし、どっちでも良いって思考法から先ずは変えて、少しでも知的生活を楽しくしようよ」

 少し気まずそうな沈黙が場を覆った。冗談で軽く雰気を変えるとしよう。

「それにさ、もしもだけど、自分の誕生日が十二月二十五日だとして、その前日の二十四日に、友達から『ハッピー・バースデー』って言われたとしら、さすがに、まだ一日早いよって思うでしょう?」

「たしかに」

「つまりさ、二十四日の日没前に、『メリー・クリスマス・イヴ』とか『メリー・クリスマス』って言うことの奇妙さってのは、それと同じなんだよ」

「なるほど」

 教室の大きな窓を通して外に目をやると、周囲はいつしか完全な闇色に包まれていた。

 隠井は腕時計に目をやった。

「本日十二月二十四日、東京の日没時刻は十六時三十三分、七分早いけど、日が沈んで、ついにクリスマスにもなったことだし、切れも良いので、ここで講義を終えよう。ちなみに、フランス語ではクリスマスの挨拶はこう言うんだぜ」

 隠井はホワイトボードに仏語のスペルを書いた。

「じゃあ、挨拶してしめようか。せ~の」

「「「「「ジョワイユー・ノエル(Joyeux Noël)!」」」」」

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