第2講 公衆と群衆、在宅とイベンター

 隠井は、大学院時代にアルバイトをしていた塾長の仲介で、都内の短期大学で一般教養の授業も受け持っていた。短大の学生達の中には、就職試験の際に一般教養科目の試験を課される者もいる。その文系科目の対策講座を隠井は担当していたのだ。


 五限目ということもあり、太陽は完全に沈み、窓の外は紫を含んだ暗い青色、青藍の幕で既に覆われていた。

 年内最後、十二月第三週目の授業だった割には参加率は悪くないと隠井は思った。とは言えども、年明け最初の授業において期末試験を実施する予定である。受講の主たる目的が、学問の習得ではなく、いわゆる単位の取得である以上、この高い参加率にも納得がゆく隠井であった。

 単位のための授業、そんなことは分かっている。そして、ここで自分が担当している科目が問題集の解答と解説ゆえに単調になりがちな性質だということも承知している。だが、それでも少しでも構わないから、受講生の知的好奇心に訴えかけるような話をしたい。それが隠井が常に抱いている思いであった。


 この日の<現代社会>の問題の中に、次のようなものがあった。


 一定の目的のために一定の場所に一時的に集まった人間の集合体はどれですか? 以下の三つの中から選んでください。

 A:大衆、B:群衆、C:公衆


 解答は「B:群衆」であった。

 隠井はここで<トーク・モード>に入った。

「解答を言うだけならこれで済む話だけど、ちょっと説明するね」

「まず、<大衆>というのは、社会において、大勢を占める、つまり大多数の人々っていう意味ね。これは<大>って漢字が入っているし、区別はそんなに難しくないかな。問題は残りの二つ、<公衆>と<群衆>の違い、これに関しては、大抵の百科事典には、こんな風に書いてあって、まとめるとこんな感じになるかな」

 隠井は、事前に準備していたノートを、書画カメラを利用して大画面に映し出した。

  

 公衆:共通の関心で結ばれているが,分散して存在することができる。現代においては特にインターネットの発達により、いわゆる間接的接触で集団を形成している。公衆の構成員は、ある一つの対象に共通の関心の保ちつつも、唯一の対象のみに拘ることなく、同時に幾つもの対象に自己の関心を分割する傾向がある。


 群衆:群衆の構成員は、空間的にまた物理的に近接していなければ存在できない。つまり集合密度が高いのが<群衆>で、その構成員は共通した一つの関心事にのみ自己を没入する傾向が高い。


 何人かの受講生が懸命にノートを取り始めた。隠井は、ノートをとる時間を与えるために、書かれた文言をゆっくりと読み上げ始めた。

 その最中である。画面の写真を撮影する、カメラアプリのシャッター音が隠井の耳に届いてきた。

 隠井は言葉を止めた。

「今、カメラの音が聞こえたけれど、僕、写真撮影許可してませんよね。これ二つの意味で絶対にやってはいけいないことなのだよ。もしかして他の授業では普通にやっていたかもしれないし、今まで誰にも注意されなかったかもしれないけれど、僕は許しません。第一の理由は、写真を撮ると、勉強した気になるだけで、覚える為には何の益にもならない。そして第二の理由が著作権の問題。こんな僕の手書きのメモとは言えども、僕の話や僕が書いたもの、講義の中で扱った僕の説明には著作権が生じるわけ。それを、僕に<無断>で写真を撮ることは、著作権法二十一条の<複製>に抵触する行為なの。もっとも、私的な使用目的の複製は著作権法三十条で認められているから、君たちが僕の説明を売り物にせず、自分の勉強の復習のために用いるだけならば本質的には問題はない。でも、僕、許可していないよね。こういうマナーが守れないのならなば、結局ルールにしなきゃならなくなるんだよ」

 受講生の中には「んだよ、けちくせ~」といった不平不満を漏らす者もいた。

「わかった、もっと簡単に言おう。講義中にスマホをいじられ、さらに写真撮られるのが不愉快なんだよ」

 隠井は声を荒げないように注意しながた静かに言った。

 

 雰囲気を変える為に、隠井はポンと一拍手した。

「さて、話を戻そう。事典的な意味では、よく分かんないかもしれないので、もう少し具体的に言おうか。この中にも、誰か好きなアーティストがいて、実際にライヴに行ったり、あるいは、そうだね年末だし、年の瀬の四日間のいずれかに、海の方に、国際展示場駅の辺りに行く人、いるかもしれないよね?」

 少し場の雰囲気が和らいで、何人か小さく手を挙げる受講生が認められた。

「よしっ、じゃあ簡単に言うと、たとえば、あるタレントAや、とある作品Bを好きだとする。それらを、テレビやネット、あるいは円盤で間接的に楽しんでいるのが<公衆>で、実際にライヴ会場みたいな<現場>に行って、直接楽しんでいるのが<群衆>、みんなそれぞれ自分の好きなモノを思い浮かべてみな」

 最前部に座っている学生から笑みが漏れていた。

「もっと簡単に言うとね、いわゆる<在宅>が<公衆>で、<イベンター>が<群衆>ってわけ。分かった?」


 何故か、いつも教室の最後部に座っている一団から拍手が上がり、年内最後の授業はそのまま幕を下ろしたのだった。 

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