第13講 万博とジャポニスム

「前回の講義では、近世の欧州における<ジャポネズリー japonaiserie>について扱いました。日本の開国直後は、陶器などの工芸品が欧州人の日本に対する興味・関心の主たる対象だったのですが、その陶器の緩衝材として、国外に持ち出された事によって、結果として、浮世絵が欧州に発見された次第なのです。

 こうした、陶器の包み紙としての浮世絵の流出というのは、あくまでも、一つの切っ掛けで、正式な契機は、実は、これです」


 十九世紀後半の<International Exhibition>


 開催年;開催地;開催日数;入場者概数

 1851年;ロンドン;141日;604万人

 1853年:ニューヨーク;五か月;125万人

 1855年:パリ;200日;516万人

 1862年:ロンドン;171日;621万人

 1867年:パリ;210日;1020万人

 1873年:ウィーン;186日;726万人

 1876年:フィラデルフィア;159日;986万人

 1878年:パリ;190日;1610万人

 1889年:パリ;180日;3235万人

 1893年:シカゴ;183日;2754万人

 1900年:パリ;210日;4768万人 


 これらは、複数の国が参加して催される国際博覧会、通称、<万博>のリストです。十九世紀後半には、半世紀の間に、世界各地で十一回開催され、その開催都市に関しては、アメリカの都市が三回、ウィーンが一回、ロンドンが二回、そしてパリが圧倒的に多くて、約半数の五回です。

 この万博に、日本の使節団が最初に訪れたのは、開国後の一八六二年、二回目のロンドン万博の時の事でした。もちろん、これは、<エキジビション>への参加が目的ではなく、不平等条約の交渉のために、文久遣欧使節団が渡欧していた際の次いででした。

 この使節団の中の一人が、「Exhibition(エキジビション)」を「博覧会」と訳したそうなのですが、実は、その人物こそが福沢諭吉なのです。

 ちなみに、使節団の中には、薩摩藩士や佐賀藩士もいて、万博で展示されていた<アームストロング砲>を目にして、佐賀藩は、一八六四年に、これを自藩で製造し、薩摩藩は一八六八年の戊辰戦争で、これを使用しています。

 さて、ロンドンの万博では、たしかに日本は正式に参加したわけではなかったのですが、駐日英国公使であったラザフォード・オールコックが、自身が日本駐在中に収集した漆器や刀剣、版画などの日本の美術品や、蓑笠や提灯、草履などの日本独自の日用品などを展示しました。

 この日本の展示品は、その物珍しさもあってか、ロンドン現地では絶賛されたそうです。しかし、使節団の淵辺徳蔵は、『全く骨董品の如くさ雑具』や、『かくの如き荒粗物』である、展示品に対して不満を漏らしていたそうです。

 そして、随行員であった市川渡は、西欧絵画と日本絵画を比較して、次のような意見を残しているそうです」


 西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や神髄を伝える点においては無知だ。

 

 「ここで、市川氏の意見にちょっと一言。

 これは、西洋絵画と日本絵画を比較した上での言説です。たしかに、<比較>って言うと、とかく、AとBを比べて、その優劣を付けがちで、先に見た比較は、まさに<優劣比較>の最たるものです。だがしかし、<比較>の本質っていうのは、優劣ではなく、並べ比べて、類似点と相違点を浮き彫りにする事によって、各々の特徴を詳らかにする事です。この事を頭の片隅に常に置いておかないと、比較が単なる優劣付け、<マウント>の取り合いになってしまいます。

 さて、閑話休題、話を戻しましょう。

 一八六二年の時は非公式の日本の物品の展示だったのですが、その五年後の一八六七年のパリ万博に、ついに、日本が正式に万博に初参加し、しかも、江戸幕府、佐賀藩、薩摩藩が、それぞれに出展し、様々な日本の美術品が展示されました。

 そして、パリ万博において、日本の美術工芸品が大々的に紹介され、かくして、欧州において日本ブームが巻き起こりました。そして、欧州の上流階級の人々は、美術品をこぞって買い求め、日本の物品を所有が、上流階級のステータスの一つとなったそうです。欧州における日本ブームの中心がパリなのも万博の影響ゆえのことでしょう。

 もちろん、そうした日本の物品の中には浮世絵もあり、欧州の蒐集家たちの収集欲を刺激し、欧州の画家達の創作意欲を掻き立てる事になったのです。

 その初期段階の具現化が、前回の講義で見た、一八六八年のマネの『エミール・ゾラの肖像』ですね。

 パリの万博は<一八六七年>で、マネの絵は、万博の一年後の<一八六八年>、おそらくは、万博で目にした浮世絵の影響の下、それを<真似>たものであるように思われます。

 こうした、日本に対する興味・関心、<ジャポネズリー>は、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン、トゥルーズ=ロートレックなど、ざっくりいうと、印象派の画家達の絵画に認められます。

 そして、初期の段階の、欧州における浮世絵の影響は、絵画の背景や小物として表われています。これが、<ジャポネズリー>です。

 そして、印象派の画家達は、習作として、浮世絵を積極的に模写していたようです。その結果、単なる<ジャポネズリー>に留まらない、新たな絵画の概念が西欧絵画、印象派の手法に中に折り込まれるようになったのです。

 まず、これまでの西欧絵画は、宗教画や戦争画、あるいは貴族の肖像画を題材としていたのですが、西欧絵画は、浮世絵が画題としていた庶民の日常生活を画題とするようになったのです。

 そして、西欧絵画の特徴は、目に見えたものをありのままに描く、いわゆる写実性にあったのですが、君達も既にみたように、浮世絵は、まったくもって写実的ではありません。浮世絵における、歌麿の美人画や、写楽の役者絵を見ても分かるように、手の位置や角度などは、明らかに写実的ではなく、西欧的な絵画の観点から言うと、デッサンが狂っていると指摘されてしまうかもしれません。そして、風景画に関しても、浮世絵は、その構図や色彩など、西欧絵画には認められないものでした。

 そして、西欧、特にフランスで活動していた印象派の画家達は、この西欧絵画と日本絵画の違いを、優劣としではなく、日本絵画の特徴、すなわち、それまでの西欧にはなかった日本独自性として認めたのです。この日本の独自性こそが、<ジャポニスム>なのです。

 ちなみに、<ジャポニスム japonisme>はフランス語由来の言葉なので、ジャポニ<ズ>ムと濁らずに、<ス>としてください。茨城が、イバラ<ギ>ではではなく、イバラ<キ>と同じように、濁らないように注意してくださいね。ここ、拘るべき個所です。

 日本では、毎年、印象派の展覧会が催されています。以前、どうして日本人は印象派が好きなのかって考えた事があります。たとえば、モネの、赤い着物を着た西欧人をモデルにした『ラ・ジャポネーズ』にような作品の場合、日本的な要素は、見てすぐに分かるものです。これが<ジャポネズリー>です。しかし、印象派の絵画はそうではありません、だがしかし、直接的な要素が認められないとしても、印象派の作品の中には、日本の独自性である<ジャポニスム>が折り込まれており、日本人の鑑賞者がそれを直観的に感じ取っているからこそ、日本人は印象派に感じるものがあるのではないでしょうか。


 さて、この夏期集中講座における私の分担講義は次回が最終回になります。次回は、現在の欧米における日本文化の影響についてお話しようと考えています。

 それでは、また次回。

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