外国語学習こと始め

第01話 グラムメールとグリモワール

 四月の第二週目の金曜日――

 この日は、都内のとある私立大学の春学期の講義開始日であった。

 朝・九時前の教室の中には、すでに、大学で最初の<授業>を受ける大学一年生たちの姿があり、いよいよ始まることになる大学生活への期待と緊張のせいか、皆、押し黙ったまま、購入したばかりのテクストをめくったり、あるいは、スマホをいじったりしていた。だが、コミュニケーション力が高めの若者が入ってくると、少しずつ会話の輪が拡がってゆき、開始前の教室内には、和気あいあいとした雰囲気が形成されつつあった。

 しかし、である。

 始業、五分前くらいの事であろうか、突然、濃紺の生地に白いストライプが入った、ちょっと迫力のあるスーツで身を纏った中年の男性が、教室の中に入ってきた。その男性は、一言も言葉を発さないまま、教壇にまで進んでゆくと、教卓の後に立って、腕を組んだまま目を閉じたのだった。

 その雰囲気に気圧されて、おしゃべりに興じていた、知り合ったばかりの受講生たちは、瞬く間に緊張状態に移行し、教室内は再び沈黙で覆われてしまった。

 受講生の中には、この先生、「なんか怖い」、「やばいかも」、「いきなり外れをひいちまった」と思った者もいたかもしれない。


 そして、永遠にも思える、重たい五分間が過ぎてゆき――

 時刻は、ようやく午前九時になった。

 この大学には、教室内に時計はなく、また、始業を告げるチャイムも鳴らない。その代わりに、男の手首の腕時計のアラーム音が一度だけ鳴ると、迫力スーツの男性は、ゆっくりと目を開き、両手を一度だけ強く打ち付けた。

 教室内に大きな音が鳴り響いた後で、ストライプスーツの男は、徐に口を開いた。


「ボンジュール。ジュマペール・ライジーン。ジュシュイ・プロフェスール・エ・ドクトゥール。アンシャンテ」 


 <ドクター・ライジーン>こと、隠井迅は、開口一番、未だ、フランス語のイロハすら知らない大学一年生たちに向かって、いきなり、フランス語で何やら話し出した。受講生の大部分は、何が始まったのか皆目見当も付かず、唖然としていた者も多かったようだ。

 それから、隠井は、ゆっくりと教室全体を見回すと、こう日本語で言葉を継いだのだった。


「さて、みなさん、改めまして、こんにちは。今、いきなりフランス語で話しだしちゃったんですけれど、これ、いったい何かというと、<初対面>の時の挨拶表現です。それでは、細かく一文一文を見てゆきましょう。

 『ボンジュール』の、<ボン>は英語の<グッド>に相当する<良い>って意味の形容詞で、<ジュール>は英語の<デイ>、つまり、『ボンジュール』で、直訳すると、<良い日だね>になります。意訳すると、<おはよう>、あるいは、<こんにちは>、日が照っている間なら、この表現を使います。

 『ジュマペール・ほにゃらら』は、自分の名前を言うときの提示表現です。細かい文法は置いておいて、とりあえず、自分の名前を言う時に、この表現を使ってください。

 ちなみに、『ライジーン』というのは、僕の本名ではなくて、<二つ名>です。

 それから、『ジュシュイ・プロフェスール・エ・ドクトゥール』の、『プロフェスール』は<教員>、『エ』は英語の<アンド>で、『ドクトゥール』ってのは、<ドクター>、博士の意味です。『ジュシュイ』は、英語の<アイアム>に相当するんで、非常によく使います。是非覚えて帰ってくださいね。まとめると、『私は教員で博士です』って言った次第です。

 最後の『アンシャンテ』は、おそらく、多くの人が初めて耳にした言葉かな? これは、『初めまして』という意味になります」 


 最初に話したフランス語の単語や文の解説を日本語で始めるや否や、先ほどまでの、迫力スーツで怖そうな雰囲気と打って変わって、<ドクター・ライジーン>は、非常に明るく、優し気でフランクな口調に変化したのだった。おかげで、受講生たちの過緊張も少し和らいだようだった。


「さてさて、みなさん。これから、今覚えたばかりのフランス語の表現を使って、全員に自己紹介をしてもらいます。『プロフェスール・エ・ドクトゥール』の所は、男子学生なら『エテュディヤン』、女学生の場合には『エテュディヤント』に置き換えてください。実は、男性と女性で、語尾がちょっと違っているので、面倒かもしれませんが、<女学生>と表現したい受講生は、この『ト』を添えるのを忘れないでください

 念のために言っておくのですが、<ダイバーシティー>の下に、学生の男女の区別をしないように、と大学当局から、お達しが来ていて、名簿からも男女の区別は消えているのですが、<語学>としてのフランス語には、男性名詞と女性名詞の区別があって、これは無視できないので、その点はご容赦ください。各受講生は、『エテュディヤン』、あるいは、『エテュディヤント』、好きなほうで言ってくれてかまいませんので。

 さて、今提示した表現を使って、フランス語で自己紹介をした後、日本語で、自分の出身地や、高校では何をしていた、とか、二年生にあがったら何を専門にしたい、とか、フランス語を履修した動機とか、趣味は何か、などなど自由に語ってください。最も重視したいのが、最後の趣味で、これに関しては、言える範囲で構わないので、具体的に、かつ細かく語ってくださいね。たとえば、音楽が好きです、じゃなく、どんなジャンルのどんなアーティストやバンドが好きだとか、本なら作家名、もちろん、漫画やアニメやゲームといったサブ・カルチャーでもオッケーですよ。好きな作品の名を挙げるのも良いですね。つまり、具体的に語ることによって初めて、クラスの中で、同じ趣味趣向の持ち主が見つかるって話なのですよ。そういった、君たちの自己紹介を聞きながら、僕からも何か質問を振ってゆきますね」


 こうして、第二外国語のフランス語の履修者三十名全員が自己紹介をしていった。

 フランス語を選択した理由に関しては、なんとなくオシャレだからという受講生も、もちろんいたのだが、中には、フランスに旅行したいからとか、高校で選択した世界史で、百年戦争の時代やフランス革命の時代に興味を持ったから、とか、あるいは、『ベルサイユのばら』や『レ・ミゼラブル』、『オペラ座の怪人』を観劇して感激したからなど、受講生それぞれが、さまざまな理由を語ってくれた。

 また、趣味に関しては、好きなバンドとか好きなアニメなどを語る人がいると、その都度、教室の各所から、「それ、私も好きっ!」って声があがったりして、隠井の狙い通りに、自己紹介を通して、クラスの雰囲気が温まっていった感があった。

 

 全員の自己紹介が終わったところで、隠井が、もう一度、両の掌を打ち付けると、教室内に大きな音が鳴り響いた。

「改めまして、初めまして。これから約一年に渡って、みなさんのフランス語の文法を週二回担当することになる隠井迅です。

 さて、僕の最終目標は、君たちを<魔術使い>にすることなのです」

「「「「「「「「「「「「「「「「「へっ!?」」」」」」」」」」」」」」」」」

  驚きの声の後、クラス全員の目が点になっていた。


「フランス語では、文法のことを、<ラ・グラムメール>と言います。英語におけるグラマーのことですね。英語も仏語も語源は、ラテン語の<グランマティカ>です。

 さて、中世ヨーロッパにおいて、文法といえば、それはラテン語の文法のことを指し示していました。そして、フランスでは、<グランマティカ>を語源とする<グラムメール>とは、ラテン語の文法や、あるいは、ラテン語で書かれた書物のことを意味していたのです。そして、中世のフランスにおいては、ラテン語は日常言語ではなく、聖職者や学者など、一部の教養のある人間だけが理解できる言語であり、当然、一般人にとっては、まったく意味不明な言語だったのです。こう言ってよければ、大衆の目からみれば、ラテン語を用いているのは、自分たちとは異なる人間で、ラテン語で書かれた書物など、判別不能な文字で書かれた、意味不明の書物だったのです。

 この<ラ・グラムメール>という語から、やがて、<ル・グリモワール>という単語が派生しました。とはいえ、これは語源の可能性の一つなのですが。

 さて、仏和辞典を持っている人は、<grimoire>という単語を引いてみてください」


 隠井は、少し間をおいて、学生に辞書を引く間を与えた。

「<グリモワール(grimoire)>には、『判読できない文字、あるいは、難解な話や書物』、そして、『魔術書』という意味が載っていたと思います。

 つまりです。

 もちろん、比喩的な意味合いもあるとは思うのですが、ラテン語が分からない、中世時代の大衆にとっては、意味不明なラテン語の文法など、まさに魔術以外の何物でもなく、ラテン語を扱う者など、<魔術師>以外の何者でもなかった分けなのです。

 そもそもの話、古代・中世時代は、現代に比べて圧倒的に識字率は低く、文字を扱うことができるのは限られた人間だけでした。こうした事情を考慮に入れると、口から発した瞬間に消えてゆく言葉を、記録として残すことができる文字は、それ自体、一般民衆にとっては、ひとつの<奇跡>、魔術に他ならなかったのではないでしょうか。

 そして、文字を使用するために体系化された法則こそが文法です。

 まとめてみると、語源的に、<文法>とは<魔術>に他ならない次第なのです。

 さて、今現在、フランス語を学び始めた君たちにとっても、この言語は、多くの人にとってと同じように、未知の言語であり、いわば、一つの<魔術>体系です。

 つまるところ、一年という時間をかけて、君たちを、フランス語の文法使い、こう言ってよければ、フランス語という魔術、<グリモワ>の使い手にしたい、と僕は考えているわけなのですよ。

 そして、今日早くも、君たちは、<初対面の挨拶>という<術語>を覚えました。来週以降も、次々に、新たな<術語>を学んでいって、立派な<グリモワ使い>に近づいてゆきましょうね」


 隠井は、そう言って、第二外国語の初回講義を締めくくったのだった。

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