第129話
そうしている間に、だれかが帰ってくる音がした。
足音と、玄関の扉が開く音が、階下から聞こえる。
「ごめん、彩花さん。父さんか香澄さんか、帰ってきたみたい。状況説明してきますね」
席を立っても、彼女は何も言わずに苦しそうに呼吸しているだけだった。
どうやら、また眠っているらしい。
駆け出したくなるのを堪え、静かに彩花の部屋から出る。
ふたりだけの時間は、どれほど心細かっただろうか。
ようやく、大人が帰ってきてくれた。
時刻は普段よりもだいぶ遅い時間だったが、帰ってこられただけ幸運なのかもしれない。
帰ってきたのは、香澄だった。
「理久くん、ごめんありがとう。彩花は?」
深刻な表情で、香澄は階段を上がってきた。
熱を出したこととその経緯は、既に香澄にも伝えてある。
「今は眠ってます。でも、大丈夫じゃなさそうです。熱もすごく高くて、顔色も悪くて、咳も出てきたみたいで。どんどん悪く……」
それだけ言って、理久はポロっと涙をこぼしてしまう。
大人が来てくれた安心感からか、それともこの不安な状況に対してなのか、自分でもよくわからなかった。
香澄は、理久の肩に手を置く。
「ありがとう、理久くん。理久くんがいてくれて、よかった」
「いえ……」
ぐしぐしと涙を拭う。香澄の言葉は嬉しいが、どこまで役に立てたかは自信がなかった。
香澄はそっと扉を開けて、彩花の様子を確認する。
やはり眠っているらしく、反応はない。
苦しそうにしているだけ。
「……明日、病院に連れていくわ。多分、風邪だろうからそれほど期待はできないけど……」
苦虫を噛み潰したように香澄は言う。
それでも、病院に連れて行ってくれるのなら、理久としては幾ばくか安心できる。
しかし、気になることもあった。
「でも、香澄さん。仕事はどうするんですか……?」
「明日は休むしかないでしょうね。小さい子ならともかく、これだけ大きい子が熱出して休むのはどうなのって話なんだけど……、状況が状況だから」
できることなら、休みたくはないのだろう。
彼女は働き始めてから一年も経っていないのだし、変な印象を与えるのは避けたいはずだ。
かといって、このまま放置するわけにはいかない。
香澄が言うように、状況がまずい。試験前なのだ。
試験までに、どうにか熱を下げなければならない。
「そうなんですよ、なんでこんなタイミングで……」
実感したからか、理久はまた泣き出しそうになってしまう。
それとも、大人がそばにいるからだろうか。
彩花が受験を控えてなければ、ここまで心を乱されることはなかった。
恐ろしいほどの不安に飲み込まれてしまう。
すると、香澄はやさしい声色でこう言ってくれた。
「大丈夫よ、理久くん。試験までに治ればそれでいいんだから。きっと笑い話になるよ。あのときはみんな焦ったね、って。大丈夫だから」
まるで、先ほどの理久と彩花の再現だ。
問題は、香澄が表情を作るのが下手なところだろうか。
不安を何とか押し留めているのがありありと顔に出ていて、とても安心できそうにない。
互いに不安を共有しているだけのようで、つい弱音を吐いてしまう。
「治るでしょうか……。もうそんなに時間もないのに。試験なんて、本調子の彩花さんなら簡単にパスできるのに……、俺が熱を代わりたいですよ……」
嘆くように言う。
すると香澄は、「わたしだってそうだよ」と暗い顔で呟いた。
考えることは同じだ。
けれど、実際に代わることはできない。
できるのは、ただ祈ることだけだ。
「……香澄さん。俺も明日、病院についていっていいですか」
どうせ明日は不安で授業に集中できないだろうし、一日くらいサボったって問題はない。
思わずそう言うと、香澄はそこで初めて笑顔を見せた。
「だーめ。慎兄に怒られちゃう。気持ちは嬉しいけど、理久くんは学校行っておいで。理久くんだって、今にも倒れそうな顔色してるよ。彩花のことは、気にしないでいいから。……でも、ありがとうね」
小さな呟きに、不安はより大きくなる。
何かしていたいのに、理久にできることはあまりにも少ない。
明日になれば、彩花はけろっとしていないだろうか。
すみません、兄さん、と照れくさそうに笑っていてくれないだろうか。
そう祈りながら、隣の部屋の気配を感じながら、理久は眠りについた。
時折、扉の開閉音が聞こえてくる。
香澄が、彩花の様子を見に行っているんだろう。
それがわかるくらいには、理久の眠りは浅かった。
ほとんど寝た気がしない一夜を開け、理久はすぐさま階段を降りて行った。
いきなり彩花の部屋を訪れるわけにはいかない。
その気遣いが無意味になることを願いながら、理久は香澄の元に向かった。
リビングでは、香澄がぼんやりと座っている。
父は落ち着かないのか、無意味に立ってうろうろしていた。
「香澄さん。彩花さん、どうですか」
おはようの挨拶もなしで、真っ先にそれを尋ねる。
願い虚しく、香澄は暗い顔で首を振った。
「……ダメ。熱も下がらないどころか、上がってて。一晩中咳もしてて。そのせいで、よく眠れてないみたいで……」
香澄は不安そうな顔を、隠そうともしない。
昨日は理久の前では、多少取り繕っていたのに。
彩花の前では気丈に振る舞っているだろうから、その反動かもしれない。
理久相手にまで、それを保持できない。
それだけ、香澄も余裕はないのだろう。
「……タクシー、呼んでおいたから。病院行っておいで。あぁ、帰りもタクシー使いなよ」
父の言葉に、香澄は「慎兄、ありがとう」と薄く笑う。
何とも暗い、朝の風景だった。
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