第131話
翌朝も、彩花の熱は下がらなかった。
いよいよ明日は、試験当日だというのに。
朝のリビングは、今までにないほど重たい空気で淀んでいる。
ここに彩花がいれば、絶対にこんな空気にはならないのに。
香澄は今日、仕事に行くようだ。
さすがに休めない、と泣きそうな顔をしていた。
実際、香澄がいたところでできることは少ないし、中学生の娘が熱を出したから、という理由で休み続けるのは難しいようだ。
理久は「俺は学校を休む」と言いたいところを必死で我慢して、早く帰ることだけを考えていた。
そして放課後。
昨日と同じように学校を飛び出し、転がるように帰宅する。
そのまま部屋まで駆け上がりたいところだったが、寝ていることを考慮して、足音を殺して階段をのぼった。
「彩花さん」
コンコン、と控えめにノックをする。
はい、とか細い声が聞こえてきて、理久は部屋の扉を開けた。
ここ数日、変わらない光景が目に入る。
可愛らしい女の子っぽい部屋だが、カーテンを閉め切っているのでかなり暗い。
以前は感じられた良い匂いのルームフレグランスも、効果を失ったのか匂いはなかった。
ベッドはこんもりと盛り上がり、彩花がそこに横たわっている。
小さなテーブルがそばに置いてあって、スポーツ飲料のペットボトルとコップ、そして薬と体温計が置かれていた。
食欲はやはりないらしく、彼女はゼリーくらいしか口にしていない。
彩花の顔を見ると、目がぼんやりとしていた。
顔全体が赤く、呼吸も荒い。
症状は一向に、改善していなかった。
その光景を見て、胸がきゅうっと苦しくなる。
自分が代わってやれればどんなにいいだろう、と切なくなる。
すっかり活力を失った彩花の顔を見て、心が押し潰されそうだった。
やわらかく笑う彼女も。
時折、ツボに入ったようにくすくす笑う彼女も。
拗ねたように唇を尖らせる彼女も。
安心したように微笑む彼女も。
ずっとずっと、見ていない気がした。
「彩花さん、調子はどうですか? 熱、計った?」
できるだけ明るく聞こえるよう、けれどうるさくならないよう、調整して口を開く。
ここ数日、こんな声の出し方がすっかり上手くなってしまった。
「熱は……、昼前に計ったくらいで……、でも、下がっては……」
「そっか。じゃあ、もう一回測りましょうね」
弱気な言葉を聞きたくなくて、彼女に体温計を手渡す。
彩花はそれを黙って受け取ると、掛け布団をかぶったまま、もぞもぞと布団の下で計り始めた。
ぴぴぴ、と無機質な音がすぐに響く。
彩花はそろそろと体温計を差し出すが、もう自分では確認もしない。
きっと、下がっていない自覚があるんだろう。
その感覚は合っていて、温度計に表示された体温は変わっていない。
彼女はずっと、高熱を出し続けている。
「ん。ちょっと下がったかな? 明日の朝にはしっかりと下がってますよ。もうひと踏ん張りです」
そんな見え透いた嘘を吐いてしまう。
でも、そうしなければその場でみっともなく泣いてしまいそうだった。
そのバレバレな嘘はお見通しのようで、彼女は薄く微笑む。
見ているこちらが傷ましくなるような、笑みだった。
「兄さん」
「なに?」
「わたしは……、兄さんたちといっしょの高校に行けることを、楽しみにしてました……。兄さんと、るかさんと……、三人で登校できるって聞いて、すごく、嬉しかったんです……」
細々とした、苦しそうな声だった。
諦観の混ざった、それでもどこか清々しさを感じるような、小さな声。
なぜ、そんなことを言うんだ。
そんなこと言わないでほしい。
元気になって、明日は試験を受ける予定なのに。
焦りましたけど、何とか間に合ってよかったです、と照れくさそうに笑う彩花を見て、理久たちはよかったよかった、と胸を撫で下ろすはずなのに。
なぜそんな、諦めたようなことを言うんだ。
本来なら、ここで「何を言っているんですか」とでも言って、無理やりにでも寝かせるべきなんだろう。
けれど、力の抜けた彼女の声を遮ることはできなかった。
「三人とも同じ高校だなんて、なんて楽しそうなんだろう……。兄さんとるかさんは先輩になって、佳奈と後藤くんも合格すれば、五人とも同じ高校で……、幸せだなあって思ってました」
そこで彩花は、げほげほ、と強くせき込む。
もう話さなくてもいい、と言いたくなるのを堪えて、彼女の言葉を待った。
はあ、と熱い息を吐いて、彩花はぼんやりと言う。
「でも、兄さん……。今でもわたしは、すごく幸せなんですよ。家に帰れば、お母さんがいてくれて、兄さんや慎二さんはとってもやさしくて……、穏やかで、やわらかくて、温かいお家に住めて……。去年のわたしには考えられないような、すごく幸せな生活を……、わたしはもう持ってるんです……。もう、満たされてるんですよ――」
彩花はこちらに顔を向けて、静かに微笑んだ。
「だから、同じ高校に通えなくても、平気なんです。ね、兄さん。だから……、だから、泣かないでください」
彼女が手を伸ばしてくる。
何も考えずに、理久はそれを両手で握り返した。
力を入れてしまいそうで、ぎゅうっと握り込んでしまいそうで、必死に唇を噛む。
あとからあとから、涙がこぼれ落ちてしまう。
泣きたいのは、彩花のほうだろうに。
なんで、と神様に文句を言いたくなってしまう。
彩花は、今までたくさんのものを失って来たのに。
さらに失う覚悟をして、この家にやってきて。
それでも彼女はようやく、幸せだと言えるようになったのに。
亡くなったお父さんの言葉を守って、理久のようにまた違うだれかを助けてくれたのに。
そんな彼女に、なんでまたこんな不幸が背負わされるんだ。
あまりにやるせなくて。
辛くて。
涙は止まらず、彼女の手を握り続けることしかできなかった。
「泣かないで、兄さん」
そのやさしい声に、理久は頭を振る。
無理やりに笑顔を作って、彼女に声を掛けた。
「泣いて、ないですよ。それより彩花さん、眠ったらどうですか。きっと目が覚めたら、すっかりもうよくなってますから」
理久の言葉に、彩花は小さく笑った。
そこに悲壮感はない。
彩花は、もう諦めている。
以前のように、諦めることを受け入れている。
それでも理久は、小さな希望にすがりたかった。
みっともなくてもいいから、まだ大丈夫、と思いたかった。
それでいいと理久は思う。
だって。
すべてを諦めていた彩花に手を伸ばし、格好悪く喚き、彩花に「諦めることを諦めさせた」のは理久だ。
義兄である、理久の役目だ。
だから理久はみっともなくても、最後まで足掻く。
彼女には、ずっとそんな姿を見られてきたし。
初めて出会ったときから、そうだったのだから。
「わかりました……。少し、眠ります。兄さん、寝付くまでいてもらっていいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます……。今日、ずっと寂しかったんです。家に、だれもいなくて。だれの声も聞こえなくて。こんなこと、去年のわたしが聞いたらビックリしますよね――」
彩花はうわ言のように言うと、すぅっと眠りに落ちていった。
握られた手はそのままで、けれど少しずつ力が抜けていく。
それでも手を離す気にはなれなくて、理久はただ黙ってその寝顔を見つめていた。
あぁ。神様。
普段は祈ったりなんかしないのに。
本当にそんなものがいるのなら、そもそも彩花の父親を奪ったりしないだろうに。
それでも、理久は祈ってしまう。
これ以上、彼女から何も奪わないでほしい。
不幸に巻き込まないでほしい。
彼女の小さな幸せを、奪わないでほしい。
理久は、祈り続けた。
ずっとずっと、お願いですから、と祈り続けた。
彼女の手を握ったまま。
その効果が出たかは定かではないが。
その夜。
少しだけ。
少しだけ、彩花の熱は下がった。
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