第130話
理久が危惧していたとおり、授業は上の空で頭に何も入ってこない。
登校中にるかに一連の流れを話はしたが、不安が共有されるだけで軽減はされなかった。
頭の中はずっと「どうしよう」でいっぱいだ。
熱が下がらなかったら、試験が受けられなかったら、どうしよう。
そんなことを考え、縁起でもない、と振り払い、けれどその不安はすぐに戻ってくる。
それ以外には、何も考えられなかった。
彩花のこと以外、すべてがどうでもいい。
そんな一日を過ごし、放課後になると理久は学校を勢いよく飛び出す。
すぐさま家に帰って来ると、リビングで香澄がテレビもつけずにぼんやりと座っていた。
この時間に香澄が家にいることに不思議な感覚に陥りつつ、真っ先に気になることを尋ねる。
「香澄さん、病院行って来たんですよね。どうでしたか」
短く問いかけると、香澄は一瞬迷ったような顔をした。
考え込むようにしながら、ゆっくりと言葉を並べる。
「……風邪だって。最近流行ってる、性質の悪い風邪。解熱剤はもらったけど、基本的には寝てるしかないんだって。でも、今の風邪は高熱も出るし、長引くから……、試験までには治らないかも、って」
「……………………」
香澄は淡々とした口調でそう言う。
理久は重いものが肩に圧し掛かるのを感じた。
確かに、最近流行っている風邪は長引くようで、クラスでも一度休むとなかなか帰ってこない生徒も多い。
とはいえ、ただの風邪ではあるので、掛かったら辛いな~、くらいに理久は思っていた。
実際、そこまで深刻ではないんだろう。
試験日さえ、被らなければ。
「……彩花さんの熱は、どうなんですか。下がり始めたりは……」
長引くというのは、あくまで概算。
案外、あっさり早めに治ったりしないか、とすがる思いで尋ねてみる。
けれど、香澄は疲れた顔で首を振ってしまった。
「ダメ。むしろ上がってる。今は寝てるけど、起きてるときはずっと苦しそうで……」
あぁ、とうなだれそうだ。
早く治ることもあれば、通常よりも長引く可能性だってある。
ギリギリで治るのなら、まだいい。
最悪でも、症状が軽くなるなら、まだマシだ。
だけど、そうじゃなかったら。
昨日の彩花の様子を思い出す。
お風呂場で動けなくなり、布団の中でずっと苦しそうにしていた。
あんな状態で、試験なんて受けられるわけがない。
もし、この状況が続いてしまったら。
そんな、どうしようもない絶望感に押し潰されそうになってしまう。
リビングには、いつの間にか沈黙が覆っていた。
「……ごめん、理久くん。家にいてくれるよね? わたし、買い物行ってきていいかな。彩花は何かあったら、スマホに連絡してくれると思うから」
「はい……、大丈夫、です」
香澄は言葉少なに、出て行ってしまった。
嫌になるくらい静かなリビングに、ひとり取り残されてしまう。
その場にいてもやることはないので、理久は階段を上って行った。
自室に入る前に、向かいの部屋の扉を見やる。
その扉越しに、彩花が寝込んでいる。
ここ最近感じることはなかったが、その扉は世界を遮断しているように見えた。
そっけない、無愛想な扉。
そこから先は、三枝彩花の聖域だ。
以前は部屋に鍵を付けてくれた父に感謝し、決して踏み越えることはないと思っていた。
彩花が自ら招き入れてくれるまでは。
その扉が、見ているだけでなんだか辛い。
理久はため息を吐き、自室に入ろうとする。
「ん?」
ぴんぽーんと間延びしたインターフォンの音が聞こえた。
宅配便だろうか、と急いで階段を降りていく。
「んん?」
インターフォンのモニターを見ると、予想外の人物がそこに立っていた。
気まずそうにカメラを見る目は、理久も久々に見るものだ。
慌てて、玄関に出ていく。
「後藤くん。どうしたの」
扉を開けた先にいたのは、彩花と佳奈のクラスメイト、後藤だった。
制服である学ラン姿で、そばには自転車が立てかけてある。
居心地が悪そうにしていたが、ゆっくりと頭を下げた。
「お久しぶりです。突然来てすみません」
基本的に礼儀正しく、スポーツマンの彼はお辞儀もだいぶ深い。
そして、その手に握られた袋で理由は察する。
後藤は真面目な表情で、口を開いた。
「三枝が、風邪で寝込んだって聞いて。大丈夫なんですか」
心配で来てしまった、ということらしい。
普段の彼なら不躾に訪ねるなんてしないだろうが、状況が状況である。
仏頂面ではあるものの、その顔には不安がにじみ出ていた。
ここは、大丈夫だから気にするな、と言っておくべきだったかもしれない。
彼だって受験生だ。
人のことを気にしている場合ではない。
けれど理久はそこまで気が回らず、正直に答えてしまった。
「……あんまり大丈夫じゃない。熱もかなり高いし、ずっと寝込んでるんだ。食欲もないみたいで」
その答えは、後藤もショックだったらしい。
そこで初めて、理久は受け答えに失敗したことを実感した。
きっと彼は、風邪で休んだと聞いていても「まぁ大丈夫だろう……」と楽観的でいたのではないだろうか。
いや、そう望んでいた。
後藤は思い詰めたような表情で、まずいじゃないですか、と呟く。
「試験、明後日ですよ。それまでに熱が下がらなかったら……」
「わかってるよ。でもそんなこと、俺たちが考えてもしょうがないでしょう……」
つい、突き放すようなことを言ってしまう。
やれることはやっている。
ジタバタして何とかなるなら、とっくにやっているのだ。
その気持ちは後藤にも伝わったのか、彼は悔しそうに唇を噛み締めた。
「そうですよね……、小山内さんは家族ですから。俺よりよっぽど状況がわかってるに決まってる……」
それは自虐なのか、それとも当てつけなのか。
理久には判断がつかなかった。
そこで初めて手に持ったものを思い出したように、おもむろに後藤は袋を突き出してくる。
「これ、お見舞いです」
「ありがとう。彩花さんには伝えておくから」
「…………」
「どうかした?」
「あの。三枝に会えたりしませんか」
それが本題だったのかもしれない。
自分の想い人が寝込んでおり、試験を受けられるかどうかもわからないのだ。声を掛けたくなるのもわからないでもない。
でも、理久はすぐに首を振った。
「彩花さん、寝てるみたいだから。起こしてまで会いたいわけじゃないでしょ」
「それは……、はい」
「それに、どっちにしろ後藤くんには会わせられないよ」
その言葉に、後藤は途端に目つきが鋭くなる。
意地悪か何かで言っているように聞こえたらしい。
その誤解を慌てて解く気力もなく、ゆるゆると手を振った。
「そういう意味じゃない。後藤くんだって受験生なんだから、風邪うつっちゃったらまずいでしょ」
「……そっすね」
納得したらしく、暗い顔で頷く。
何かできないかと飛び出してきたものの、何もできない無力感を噛み締めているのかもしれない。
悪いがこちらは、その何倍も同じ痛みを味わっている。
すると後藤は、突然頭を深々と下げた。
「小山内さん。三枝のこと、よろしくお願いします。俺が言うようなことじゃないとは思いますが、それでも、です」
「………………」
まっすぐに言われて、ため息が出そうになる。
彼は家族に安否を願うことしかできない状況に、無力感を覚えている。
理久の役目を自分がやれれば、とでも思っているのかもしれない。
しかし、こうして家族であることを強調されるのも、なかなかに堪えるのだ。
後藤に悪気はないんだろうけど。
「俺にできることをするよ。お見舞い、ありがとう」
これ以上居てもしょうがないと思い、理久は踵を返す。
すると、その背中に後藤は「小山内さん」と声を掛けてきた。
「なに?」
「小山内さんには伝えておきます。俺、三枝にもう一度告白しました。返事は受験が終わってからで大丈夫だからって。それだけですが、小山内さんにも伝えたほうがいいと思ったので」
「…………………………」
律儀な男だ。
まさか知っているよ、と返すわけにはいかず、かといって適切な返事も思い浮かばなかった。
別に彼は、揺さぶりといった駆け引きをしているわけではなく、同じ人を好きになっているから、内情を知っているから、という理由でわざわざ言って来たのだろう。
後藤のいいところは、多分そういうところだ。
「そっか。俺も、答えが出たよ」
そうとだけ告げて、理久は家に戻っていく。
後藤はその言葉の意味を知りたそうな、怪訝な顔をしていたが、答えるつもりはなかった。
ばたん、と扉が閉じる。
理久はまたひとつ、ため息を重ねた。
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