第132話

 その日の夜。


 リビングでは、彩花抜きで家族会議が行われていた。


 理久、香澄、父の三人。


 議題は単純。



『明日の彩花の試験は、どうすべきか』というものだった。



 香澄が口を開く。



「彩花の熱は相変わらず高いけど、少しだけ下がってて……。もしかしたら、明日の朝はもっと下がってるかもしれない。彩花も、薬を飲んで試験を受けに行くつもりはあるみたい」



 それに、理久も父もすぐには言葉を返せない。


 熱は、大きく下がったわけではない。ずっと同じ水準か、上がり続けるだけだったところ、ようやく少し下がっただけだ。


 解熱剤を飲めば試験を受けられる状態かと言えば、間違いなくそんなコンディションではない。


 ぐっと熱が下がれば話は別だが、それは希望的観測だろう。


 もちろん、そうなることが望ましいが。



「本人に行く気があるのなら……、受けたほうがいいとは思う」



 父は慎重に言う。


 彩花はもう諦めてしまっているけれど、それでも試験を受けに行く気持ちはあるようだ。


 心配ではある。


 あんな状態では、試験どころか学校に辿り着くことさえキツイだろう。


 そこからさらに、きっちりと試験を受けるだなんて。


 それでも、彩花が行きたいというのなら、そうすべきだとも思う。


 父は続けて、口を開いた。



「でも、あれで電車に乗るのは辛いだろう。タクシーを呼ぼう。それとも、レンタカーを借りて来たほうがいいかな」



 どうやら父は、レンタカーで送っていくことも考えているらしい。


 そのためなら、仕事を休んでも構わないそうだ。


 父の心持ちは息子ながら嬉しくなってしまうが、理久は静かに首を振った。



「……豊崎は、あの時間に車で行こうとするとかなり混む。試験の説明でも、公共交通機関を使ってください、って書かれてるくらい。それでも車で行くんなら、だいぶ早めに出ないと危ないと思う。しかも、明日は雪が降るって話だし……。早起きを強いるよりも、できるだけ寝ていたほうがいいと思う……」


「あぁ、そうだったな……」



 去年、試験を受けただけに理久も父もわかっている。


 豊崎高校は車で行くのにあまり適していないうえに、試験日となれば、それでも保護者が車を出すだろう。


 混雑は必至だ。


 電車で行くよりは楽だろうが、かなり早く家を出ないと試験に間に合わなくなる危険性がある。


 理久もるかも、去年は揃って電車で試験に向かっていた。



「そうなると、電車のほうが確実かぁ……」



 香澄はため息まじりでそう言う。


 気持ちはわかる。


 あの状態の彩花を電車に乗せるのは、かなり心苦しい。


 かといって、かなり早い時間に叩き起こすのは、それはそれでどうだろう。


 体調がよくなる可能性を考慮すれば、ギリギリまで眠っている、というのは悪くないような気がする。



 なら、電車で向かわせよう。


 準備はこちらで済ませておき、ギリギリまで寝かせて、薬を飲ませて試験に向かわせる。


 そう話がまとまったところで、香澄はスマホを取り出した。



「それならわたし、会社を休んでいっしょに行こうかな……。さすがに、ひとりで彩花を電車に乗せるわけにはいかないし……」



 それは理久も同意見だ。


 いくら何でも、ひとりでは無理だ。


 だれかが付き添うことが前提だからこそ、電車という選択肢が出てくる。


 だからこそ、理久は手を挙げた。



「香澄さん。俺に行かせてください」


「理久くんが?」


「うちの高校ですから。俺なら案内できるし、試験で学校が休みになるんですよ。香澄さんがわざわざ仕事で休むより、俺が行ったほうがよくないですか」



 たとえ、ここで香澄が「それでも自分が行く」と言い出しても、きっと理久は無理やりついていっただろう。


 あの状態の彩花を電車に乗せたくないという思いはいっしょだし、どちらにせよ何かしていないとどうにかなりそうだ。


 家に閉じこもっているより、よっぽどいい。


 少しでも彼女のためになるのなら、何だってするつもりだ。



 それが伝わったかどうかはわからないが、香澄はふっと息を吐いた。


 いっしょに生活する中で、香澄も理久のことは多少信用していると思う。


 何より、彩花自身が信頼してくれているのだから。


 香澄は申し訳なさそうな顔をして、それから静かに頭を下げた。



「……それなら、お願いできる? ごめんなさい、正直すごく助かるわ。彩花のこと、よろしくね」


「はい。任せてください。俺は、兄ですから」



 力強く頷く。


 今回ばかりは、その言葉もはっきりと口にできた。




 そして、翌朝。


 理久たちの心配は杞憂に終わり、彩花の熱はすっかり下がっていた。



 というオチになれば、どんなによかっただろう。


 熱は昨夜、少しだけ下がったものの、それ以降は横ばいだった。


 それでも、彩花は試験を受けに行く準備をする。


 久しぶりに制服のセーラー服に袖を通し、分厚いコートはしっかりと前を留め、温かいニット帽をかぶり、マフラーを巻きつけ、マスクも装着し、スカートの下も学校指定のジャージを履いている。



 下手をすれば、クラスメイトでも彼女が三枝彩花だと気付けないかもしれない。


 しかし、完全防備にしたところで、熱が下がるわけではない。


 布団の中ほど、温かいわけでもない。



 香澄に手を引かれて階段を降りてきた彩花は、明らかにふらふらとした様子だった。


 顔はぽうっとしていて、熱に浮かされていることが伝わる。


 それでも彼女は、立ってこの場にいた。


 香澄は心配そうな表情を隠そうともしなかったが、彩花自身も香澄の顔色を窺う余裕はなさそうだ。


 理久と目が合うと、申し訳なさそうに小さく頭を下げる。



「すみません、兄さん……。よろしくお願いします……」



 その声はか細く、今にも消えてしまいそうだった。


 それで彼女がいかに無理をしているかが伝わり、胸の痛みが強くなる。


 けれどそれは見ないふりして、理久は無理やりに笑顔を作った。



「いえ。自分の高校に行くだけなんで。気にしないでください」


 


 そうして、玄関に向かう。


 彩花は緩慢な動作で、靴を履き替えていた。


 彩花と出掛けるとき、ふたりで靴を履き替える瞬間が理久は好きだった。


 しかし、それすら辛そうな彩花を見ていると、どうしても心が苦しくなる。


 香澄と父も、その姿を見守っていた。



「いって、きます」



 力を振り絞るように、彩花は言う。


 香澄と父は何かを言い掛けたが、最終的に「頑張って」としか言えなかったようだ。


 代わりに、香澄が理久に声を掛けてくる。



「理久くん。彩花をお願い」


「はい」



 理久は力強く頷く。


 今、一番不安なのは彩花なのだ。


 しんどい思いをしながら、これから試験を受ける苦痛を想像しながら、この寒い中、熱のある身体で歩いて行かなければならない。


 せめて理久は、平気な顔をしているべきだ。



 扉を開けると、最悪なことに雪がしんしんと降り積もっていた。


 ただでさえ寒いのに、風はより冷たく感じる。



 駅まではタクシーで行くように言われたので、家の前で待っているタクシーにふたりで乗り込んだ。


 それさえも、彩花は辛そうだった。


 言うまでもなく、電車よりも車に乗るほうが楽だろう。


 大丈夫だろうか、と不安になるものの、目を瞑って休む彩花に掛ける言葉はなかった。



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