第117話

 彩花は目をそっと逸らし、静かに口を開く。



「わたし、再婚前はとても不安でした。いっしょに暮らす人は、どんな人なんだろう。上手くやっていけるかな。上手くできなかったら、どうしよう。そんなふうに考えて、不安になって、でも考えてもしょうがないから考えないようにしているのに、考えてしまう」



 そこで彼女はふっと息を吐く。



「でも、ある程度は覚悟もしていましたし、諦めてもいました。何があっても、我慢しよう。耐えよう。もう耐えることしかできないから。諦めてさえいれば、どうなってもいいやって思えるから。そんなふうに、考えていたんです」



 その覚悟も諦観も、理久には伝わっている。


 初めて玄関で彼女の姿を見たときや、ともに生活する中で、彼女が様々なものを諦めているのは、わかっていた。


 理久が前に踏み出してなかったら、きっと彩花は今も理久や父に一生懸命気を遣って、遠慮して、肩を小さくして生きていたんだろう。


 それを利用して、理久が下衆なことをしたとしても、彼女は涙を呑んで受け入れる。


 諦めているから。


 どうでもいいや、と思っているから。



 けれど、今はそうじゃない。


 そうじゃなくなった。



「でも、兄さんのおかげで、わたしはあそこを帰る家だと思うことができました。今は、すごく穏やかに、健やかに生活できています。こんな生活が待っているなんて、半年前は思ってもいませんでした。兄さん、本当にありがとうございます。あなたが、いっしょに住んでくれる人で、よかった」


「――――――――――」



 その微笑みも、その言葉にも、理久は何も言えなくなってしまう。


 あぁ。


 そんなことを、言わないでほしい。


 なんで、そんなことを言ってしまうんだ。


 そんなのを聞いたら――、こちらの想いが溢れそうになる。


 目の前の小さな身体を、引き寄せたくて堪らなくなる。


 愛おしさが器から溢れて、ぽたぽたと零れ落ちてしまった。


 衝動に任せて、彼女をぎゅっと抱き締めて、胸の中に納められたら。


 その長い髪をこの手で撫でられたら。


 温かい体温を感じられたら。


 どんなに、どんなにいいだろう。



 けれど、その瞬間に、彼女のこの親愛の情も。


 信頼の眼差しも。


 すべて、形を変えてしまう。


 だから、理久は必死で堪えるしかなかった。



「……兄さん?」



 彩花は首を傾げて、こちらを見上げている。


 そのきょとんした顔も可愛らしかったけれど、これ以上黙り込むわけにはいかない。


 口を開こうとして、代わりに涙がぽたりとこぼれた。



「に、兄さん……っ、ど、どうしたんですか……っ!」


「いや、あの……。嬉しくて……、ごめん……」



 涙を拭う。


 愛しさでどうにかなりそうにはなったものの、それはそれとして、彼女のその言葉は純粋に嬉しかった。


 これは、兄として、だ。


 田んぼで助けてくれたあのときの彼女のように、彩花は笑顔を取り戻してくれた。


 今は、怯えずに生活できている。


 それを感謝してくれていること、その思いを伝えてくれること。


 それが胸をいっぱいにしていた。



「な、泣かないでください……、わたし、そんなつもりじゃ……」



 おろおろと彩花は慌ててしまう。


 いや、これは理久が悪い。 


 彼女のことになると、何とも涙もろくなってしまって、参る。


 恥ずかしさとか情けなさをごまかすように、理久は下手くそな笑顔を浮かべた。



「ごめんなさい、大丈夫です。マフラー、使わせてもらいますね」



 そう言うと、彩花はようやく安心したようだ。


 ふわりと微笑みながら、「はい」と返事をしてくれる。


 そして、その瞬間にぴゅうっと冷たい風が吹いた。


 お互い、身体をぶるりと震わせる。


 顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。



「戻りましょうか」


「はい。そろそろ、お母さんたちも帰ってきますよね」



 ふたりで来た道を戻っていく。


 クリスマスはまだまだ終わらないようで、ショッピングモールの近くにはたくさんの人が行きかっている。


 そこになんとなく視線を向けていると、「「あ」」と彩花と同時に口を開いた。



 そこに見えたのは、『クリスマスケーキ』と書かれた真っ赤なのぼり。


 そのそばには、サンタクロースの格好をした女性たちが、ケーキを販売している。


 彩花と顔を見合わせて、互いに何を考えているかがわかった。


 まぁ彼女はダイエットを終えたばかりだが、一年に一回のクリスマスだ。


 今日くらいはいいだろう。



「買って行きましょうか」


「はい。四人でなら、一ホールあっても食べ切れますよね」


 


 まぁ理久と父はそれほど食べないが、彩花がいるから大丈夫だろう。


 そう思って、「そうですね」と答えると、彩花が少しむっとした表情になる。


 唇を尖らせて、静かに呟いた。



「兄さん、みんなが食べ切れなくても、わたしがいるから大丈夫、と思っているでしょう……」



 思ってましたけど……。


 言ってないんだから、そこはセーフじゃない?


 声は出さず、とにかく黙って気まずい笑顔を見せていたら、彩花は「わ、わたしだって、もうそんなに食べないですからね……っ」と怒られてしまう。


 まぁでも多分、余ってたら食べるんだろうな。


 さすがにそこまでは言わないけど。



 ケーキをひとつ購入し、家に戻ってくる。


 すると、ちょうどよく香澄も仕事から帰ってきたようだ。


 玄関からパタパタとリビングに直行してきて、上機嫌で話しかけてくる。



「ねぇねぇふたりとも。今日はクリスマスでしょう? 少しくらいクリスマスらしいことをしようと思って……、じゃーん!」



 香澄はテンション高く効果音を演出しながら、後ろ手に持っていたものを前に突き出した。


 その瞬間、顔が曇る理久と彩花。


 思ったリアクションがなかったせいか、香澄はつまらなそうな表情になる。



「なに、ふたりとも。中学生と高校生じゃ、ケーキくらいじゃ喜ばない? あ、もしかして彩花のダイエット? 大丈夫よお、ちょっとくらい食べても」



 香澄はのんきに笑っているが、そうじゃない。


 彼女の手にあるのは、一ホールのケーキ。


 確かにクリスマスらしいものだが……、彩花と理久は同時にテーブルの上を指差す。



「えっ……!? ふたりとも、もう買っちゃったの!? わ、どうしましょう、これ……!」


「こういうダブつき方するんですねえ……」



 理久は苦笑いを浮かべる。


 今まで父と二人暮らしでふたりとも甘い物は好きじゃないから、ケーキなんてほとんど買ってこなかった。


 買ってくるような普通の家庭でも、大体買う人は決まっているものだろう。


 なかなかない事故に笑うしかない。


 どうするこれ……、と微妙な空気になっている中、父も帰宅してきた。



「ただいま~。あれ、みんななんでお揃い? まぁいいや、それならコレ見て! ケーキ買って来たんだ! これで少しはクリスマスらしくなるだろう?」



 あちゃあ、と三人で苦笑いを浮かべる。


 そして父は、テーブルの上に並んだケーキ二ホールに気が付いた。


 己が持っている、一ホールのケーキに目を向ける。



「……これは、やってしまったな? 参ったなぁ」


「参ったなぁ、じゃないよ! 慎兄! どうすんの、四人で三ホールだなんてぇ!」



 香澄がそんなふうに父を叩くが、父は愉快そうに笑っている。


 笑うしかないなあ、と理久と彩花もいっしょになって笑みを浮かべた。


 

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