第68話
「ああぁぁぁぁぁ……、絶対ヤバイって、それ、ああ、ダメだってえええ」
話が進むごとに恐怖のボルテージが上がるのか、香澄の口から怯えの声がより具体的に漏れていく。彩花はそこまでじゃないものの、「ひっ」「きゃっ」という小さな悲鳴が徐々に大きくなっていった。
香澄が遠慮なく声を上げているから、つられたのかもしれない。
ふたりとも楽しんでるなあ、と映画よりもそちらの微笑ましさのほうが勝っていたのだが。
そこで変化が訪れる。
「ひゃあっ!」
「きゃっ!」
何人目かの犠牲者が血をまき散らしながら絶命したシーンで、ふたりが大きくのけぞったのだ。
それには理久もさすがに驚いた。
映画の内容ではなく、彩花の行動にだ。
「…………」
彩花も香澄も、画面から視線を外さない。
しかし、香澄はいつの間にか父の腕に抱き着くように掴まっているし、彩花はそこまでじゃないものの、理久の腕を両手で握っていた。
自然と、身体が寄せられる。
これは……。
ちょっとまずい気がするんですけど……。
ふたりとも夢中になって観ているせいで、自分がだれの腕にすがっているかを自覚していない。
いや、香澄はわからないけれど、少なくとも彩花はそうだろう。
普段の彩花なら、こんな不用意に接触したりしない。
彩花は肩をくっつけて押し付けるようにし、その細い指や小さな手が理久の腕をがっちり掴んで離さなかった。
理久が少し顔を動かせば、彼女の髪に触れるかもしれない距離。
彩花の体温や息遣いがいやというほど感じられる。
ホラー映画を観ていても普段どおりだった心臓が、途端に強く波打つ。
いや、好きな女の子に無意識とはいえ頼られて、身体をくっつけられるのは正直嬉しい。
でも、相手の弱みに付け込んでいるようで不安にはなる……。
香澄と父はおそらく慣れているからこそ、あの状態なんだろうけど……。
当然、映画なんて集中できるはずがない。だれが死のうが全然興味がない。
それよりもすぐそばに彼女の熱を感じて、そちらにばかり意識がいく。
見ないようにしても、どうしても視界に入ってしまう。
そんな近い距離にいて、心を乱されないはずがなかった。
「……っ」
腕に絡む彼女の指に意識がいっていたが、つい口から声が漏れそうになった。
痛い。
ちょっと、あの。
彩花さん、指に力込め過ぎじゃないでしょうか。
「ひっ……」
彩花の目はテレビに釘付けのままで、小さく悲鳴を上げた。
映画は後半に差し掛かり、どんどんエスカレートしていく。
そして、そのたびに指の力が強くなっていった。
痛い。
痛い痛い痛い……。
いや、本当に痛い!
本当にもう映画どころじゃないし、それどころか彩花がそばにいる嬉しさも消えつつある。
映画の感想が全部「痛い」だ。
恐怖の力はそれだけすごいらしく、その細腕からどうしてそんな力が出るんだ、と思うくらいに指が喰い込んでいた。
今の彩花さん、俺より握力ない?
顔を顰め、歯を食いしばり、それでも和らがない腕の痛みにギブアップしそうになる。
けれど、ここで「あの、彩花さん痛いです……」とは言えない。言えば彼女は離してくれるだろうけど、そのあとの展開の想像は容易い。
まず、力任せに腕を掴んだことを謝罪し、
義理の兄とは言え、男性の腕にすがりついていたことに恥ずかしさを覚え、
気まずくなっている間にも映画は進んでいく……。
そうなればきっと、彩花は映画に集中しきれない。
それでは、この映画鑑賞会の意味がない。
つまり。
理久に課された使命は、ただこの痛みに耐えることだ……。
いや、本当に痛い……。
そして、映画スタートから約二時間後。
画面にスタッフロールが流れる中、香澄はぐったりとソファに埋もれ、彩花も疲れを見せた表情で飲み物を飲んでいた。
あれから彩花はずっと理久の腕を掴んでいたが、映画の終盤で悪霊が去り、エピローグに入ると自然に手は離れていった。怖いシーンはもうないと察したのだろう。
理久の腕にすがっていたことには、最後まで気付かなかったようだ。
よかったような、残念なような。
「あぁ……。疲れた……。怖かったあ……」
香澄はぐったりしたまま、枯れた声を吐き出す。
それを見て、父は愉快そうに「懐かしいなあ、この感じ」と笑っていた。
香澄は父をじろりと睨んだが、言い返す気力はないようだ。
彩花は十分に怖がっていたものの、今は落ち着きを取り戻していた。穏やかに微笑みながら、理久に顔を向ける。
「怖かったですね、兄さん。でも、付き合ってくれてありがとうございます。これで明日学校で友達に――」
そう言い掛けて、彩花の表情がサッと青褪める。
真っ青な顔をしてこちらをじっと見て、口元に手を当てた。その手が震え出すのが見える。
様子のおかしい娘に気付いた香澄が、「どうしたの」と理久を見て、悲鳴を上げた。すぐに父にすがりつき、泣きそうな顔で荒い息を吐いている。
「え、なに……?」
突然のふたりの豹変に戸惑っていると、彩花がわなわなと震える指をこちらに向けた。
「に、兄さん……。そ、その腕……、どうしたんですか……?」
「腕……? あっ……」
理久の腕には、くっきりと手形が残っていた。
それはまるで、だれかが理久の腕を掴んでいたかのよう……。
……よう、というより、まさしく彩花が掴んでいたのだが。
それをわかっていない怖がりふたりは、真っ青な顔で震えていた。
「り、理久くんが……、の、呪われちゃった……、呪いの痣……!」
「に、にいさん、な、なんでそんな、そんな……、な、何をしたんですか……!?」
いや、これやったのはあなたですけども。
状況がわかっているらしい父だけが、ひっそり腹を抱えて笑いを噛み殺していた。
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