第95話
るかに「いざとなったらウチに逃げ込んでいい」と言われたのは、理久にとってかなり心が軽くなる出来事だった。
「絶対に言えない」のと「最悪そうなっても何とかなる」では、状況がまるで違う。
もちろん、るかや彩花に負担を掛けることは間違いないので、軽々に取れる選択肢ではない。
それでも、理久の心を軽くしたのは確かだ。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
一足先に帰宅した理久がリビングでテレビを観ていると、中学校から彩花が帰ってきた。
もう慣れてしまったとさえ思えるやりとりを交わすと、彩花はふわりと微笑む。
「また寒くなってきましたね」
「そうですねえ」
秋が終わり、気温はさらに低くなっている。
彩花と理久の制服も、冬服に変わっていた。
なんてことはないことを言いながら、彩花はリビングを横切っていく。
彼女の制服は白いセーラー服のままだが、長袖に変わり、スカートの色も濃くなっていた。
長い髪を揺らしながら、静かに歩く彼女は見惚れるくらいに綺麗だ。
長い時間をともに過ごしているというのに、今でも彼女の姿を見ていると胸が高鳴ってくる。
こんな些細なやりとりでさえ、理久の心は温かくなった。
彼女は階段をとん、とん、とん、と上がっていく。
「……告白、か」
自分があの子に告白をする。
今までは絶対に許されない行為だっただけに、可能性が提示されただけでも嬉しかった。
理久が告白し、彩花がそれを受けてくれれば。
きっと、いろんな心配事が消えていってくれるのに。
それが過ぎた願いであることは自覚しながらも、願わずにはいられない。
「……っ?」
物思いに耽っていると、どたどたどた、と勢いよく階段を降りてくる音に目を丸くする。
あんな音を聴いたのは初めてだ。
理久の気持ち悪い妄想を察知した彩花が、その怒りを持ち出してきたのかと思ったが、そうではなく。
「に、にいさんにいさんにいさんっ」
取り乱した彩花がリビングに突撃してきた。
ここまで血相を変えた彩花は見たことがない。
困惑していると、彼女は怯えを隠そうともせず、不安そうな目をこちらに向けた。
手は落ち着きなく、胸の前に重ねられている。
「ど、どうしたの、彩花さん」
「あの、あのあの、兄さんは虫って平気ですか……!?」
……虫。
何を言っているかわからず、本気で戸惑っていると、彩花にもそれが伝わったらしい。
早口で用件を言ってくる。
「わ、わたしの部屋に虫が、いてぇ……っ! わた、わたし、虫は本当にダメで……! もし兄さんが平気なら、あの、退治して頂ければと……っ!」
「……なるほど?」
背筋に寒いものが走る。
これは、たぶん、あれかな。
黒いアイツかな。
ゴから始まる、憎き台所の敵。
……苦手なんだよなぁ、アレ。
虫って言うけど、カテゴリーとしては独立しているとさえ思う。
理久は確かに男だ。女の子よりも虫に対する耐性はあるだろうし、普通の虫にはそれほど嫌悪感は抱かない。
けれど、ゴがつくあいつだけは別だ。
観た瞬間に男女を超越した、強い憎悪と本能的な恐怖、家に侵入を許してしまった無力感が襲ってくる。
特に理久は家事を担当していただけに、奴と出会う可能性は父より高く、昔から何度か死闘を繰り広げた。
どれだけ気を付けていても、うっかり家に侵入することがあるのは、奴の怖いところ。
できれば、奴の処理はやりたくないけれど……。
「……わかった。行こう」
これほどまでに怯え切っている彩花を、矢面に立たせるわけにはいかない。
彼女は途端にぱあっと表情を明るくさせ、立ち上がった理久の後ろに回った。
かわいい。
かわいいし、頼りにされるのは嬉しいが、今から死地に向かう。
あまり和んでもいられなかった。
「あ、ありがとうございます、兄さん……、助かります……」
小さな声に希望を乗せて、理久の背中に隠れる彩花。
それだけ敵は強大だ。
覚悟を持って挑まなければなるまい。
ふたりで階段を上って、彩花の部屋の前に辿り着く。
そこで気が付いた。
「あの、彩花さん。俺、部屋に入ることになっちゃいますけど。いいんですか」
「大丈夫です。ですから、どうかお願いします」
背中に隠れたまま、彩花は言う。
部屋にゴキが出たという緊急性のためか、それとも兄として信頼されているのか、微妙なところだ。
まぁ彼女がいいのなら、と部屋のドアノブを回す。
理久は、彩花の部屋をほとんど見たことがない。
引っ越してきたときにちらりと見えたり、彼女が部屋を出るときに隙間から見えたことはあるけれど。
家の中とはいえ、ここだけは理久にとって未知数だ。
パッと見た印象は、綺麗にしていて可愛らしい部屋だな、というもの。
白を基調とした部屋はよく整頓されていて、清潔感がある。
棚や机といった家具はどこか女の子を感じさせるデザインが多く、ベッドは薄いピンク色のシーツ。
小ぶりの棚には文庫本がぎゅうぎゅうに詰まっている。
それと、良い匂いがした。
ほのかに甘く、清涼感のある香りだ。
一瞬、自分の気持ち悪さに嫌気が差したが、どうやら棚の上に置かれたリードディフューザーが原因のようだ。だからセーフ。これはセーフである。
あまりじろじろ見るのはよくない、と思いつつも、敵は黒いアイツ。
どこだ、どこにいるんだ、と目を凝らしてしまう。
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