第98話

 以前のことを思い出したからか、何だか気まずい空気が流れてしまった。


 部屋でふたりきりで微妙な空気になるのは、悪い意味でドキドキしてしまう。


 それは彩花も感じていたのだろう、パっと話題を変えた。



「そ、そうだ、兄さん。さっき、あまり眠れないと言ってましたよね?」



 先ほどの安眠の件まで話を戻し、彩花は左手を持ち上げた。


 そして、それに右手の親指を当てる。



「ここにですね、安眠のツボがあるんですよ。眠れないときは、押してみてください」



 彩花は手のひらの中心部分、そこから少しずれた場所をぐぐっと押し込んでいる。


 香りだけでなく、ツボまで把握しているなんて。


 案外、眠りにはこだわりがあるんだろうか?


 さっきのアロマのときもそうだが、ちょっとテンションが高い気がする。


 ツボはよくわからないが、眠れるのなら試してみたい。


 理久は自分の手のひらと、彼女の手のひらを見比べる。



「ここ?」



 彼女が示していた場所を見ながら、自分の手をぐりぐりと親指で刺激してみる。


 よくわからない。


 合ってるのかどうか、正解を判断する方法もわからない。


 首を傾げていると、理久の手を彼女の両手がふわりと包んだ。


 えっ!? と驚きの声を上げなかった自分を褒めたい。


 もしそうしていたら、彼女は我に返って、絶対に手を離していたはずだ。



「ここです、ここ。きゅうっとした痛みを感じませんか? 眠るときに、ここをぐりぐりしていると、いつの間にか眠りに落ちているんです。痛気持ちいいくらいの強さで……」



 嬉しそうに、彩花は説明してくれる。


 声が弾んでいるし、やはりテンションが上がっているようだ。


 かわいい。


 かわいいけれど、ドキドキはする。


 それはもう、めちゃくちゃドキドキしている。


 だって、好きな子に手を握られているのだ。



 彼女の手は料理するときによく見たが、肌が白くて、指の一本一本がすらりと長い。


 そして、しなやかだ。


 きっと触れたら、同じ人間とは思えないほどにやわらかいと思っていた。



 こうして触れたことにより、その感覚が正解だったことを悟る。


 彼女の体温、やわらかな肌、すべすべとした感触。


 それらがこちらの手を包んでいるのだから、心臓は痛いくらいに跳ね上がった。



「なので、眠れないな~、と思ったときはここを押してみてください。そうしているだけで、落ち着いて……、きもし……、ます、し……」



 饒舌だった彩花の声が、徐々に小さくなっていく。


 説明に夢中で気付いていなかったようだが、今男性の手を握っていることを実感したらしい。


 彼女の頬が少しずつ赤くなるのが見えた。


 けれど、こちらはとっくの昔に真っ赤だ。


 もしかしたら、彩花はそんな理久を見て、己のしたことを実感したのかもしれない。


 手をパっと離して、引っ込めた。



「あ……、なんだか、照れちゃいますね」


 


 気まずい空気に耐えられなかったのか、彩花は顔を上げて笑う。


 赤くなった頬、照れくさそうに笑った顔、たどたどしい照れ隠し。


 言うのか、それを。


 確かに、この空気は照れくさいけれど。


 そんなことを言われたら。


 より、意識してしまうのではないか。



「――――ぁ」



 そんな彼女を、愛しい、と強く思う。


 心から愛しい。


 目の前にいる彼女のことが、だれよりも好きだ。


 こうしていっしょに暮らす中で、これ以上ないほどに惹かれていく。


 今すぐ、彼女を抱き寄せられたら、それに応えてもらえたら、どんなに幸せだろう。


 そんな罪深いことまで願ってしまう。


 少し前まで、「付き合いたいかどうかなんて、わからない」と言っていたのに。


 こんなにも短い間に、心は彼女の手によってどんどん変化していく。



 今までは、そこに切なさと痛みを感じていた。


 決して近付けない、近付いてはいけない、近いからこそ踏み越えられない境界線が引かれていた。


 でも。


 あくまで保険ではあるけれど、るかは「我慢できなくなったら、言えばいい」と言ってくれた。


 こんなにも愛しい気持ちが噴き出したことは、今までになかった。


 踏み越えてしまって、いいのではないだろうか。


 だって、心はこんなにも――。

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