第97話
しかし、彩花がずっと警戒しているのも可哀想なので、さっさと始末したいところ。
理久も彩花と同じく、クモを見逃さないように目を向ける。
すると、彩花がおずおずと口を開いた。
「……兄さん。何か、お話しませんか。緊張で圧し潰されそうです」
警戒しすぎじゃないだろうか。
ただ、理久も黒いあいつと対峙したときや、「この空間に……、いる……!」と感じたときの圧迫感は覚えがある。
今それと同じプレッシャーを彼女が感じているのであれば、その提案には乗ってあげたい。
ただ、急に言われても、という話ではあるのだが……。
「あ。彩花さんの部屋って、なんだかいい香りがしますね」
話題だったら何でもいいだろうと思って、口にしてから後悔する。
気持ち悪いか……? いや、でもルームフレグランスがあるわけだから、そこまでおかしな意見ではない……、と、思いたい……。
理久がおそるおそる審判の時を待っていると、彩花は手を合わせて答えた。
「あ、ほんとですか? ベルガモットの香りなんです。いい匂いですよね。安眠効果があるんですよ。すぅっとやさしく眠れるような気がして、すごくいいんです。最近はぐっすりで」
顔を明るくさせて、嬉しそうに言う彩花に、ほっと胸を撫で下ろす。
前々からいい香りがするな、とは思っていたが、正体はこのルームフレグランスだったらしい。
その口ぶりから察するに、彼女はアロマが好きなのだろうか。
彩花がぐっすり眠れていることが嬉しく思うと同時に、羨ましくなった。
「安眠効果かぁ。いいですね、そういうの。俺、最近あまり眠れてなくて」
つい、弱音を吐いてしまう。
眠れないのは言うまでもなく、悩みが多いせいだ。
先日の後藤の件も含め、眠るときにふと脳裏によぎり、考えてもしょうがないことをぐるぐる考えてしまう。
るかに「いざとなったら逃げてきてもいいよ」と言われてから少しは心が楽になったが、それでも心配事は多く積み重なっている。
そんな気はなかったのだが、彩花は「それなら」と微笑んだ。
「兄さんも、部屋にアロマを置いたらどうでしょうか。よかったら、ひとつ持っていきませんか。安眠効果のある香りは、いくつかありますし」
彩花は返事を待たずに立ち上がり、棚を開いて中を覗く。
アロマに興味があるわけではなかったが、彩花が親切にしてくれるのは素直に嬉しい。
いいの? と問うと、ぜひ、と返ってくる。
「セットで購入しているので、いくつかあるんです。兄さんはどんな香りが好きですか? 安眠効果があるのは、ラベンダーや、あとは今あるベルガモットとか。あぁでも、この部屋がいい香りと感じたなら、同じベルガモットがいいでしょうか?」
彩花はいくつか瓶を取り出して、見比べている。
確かに、今部屋に満たされている香りは良い匂いと感じるし、この中で眠るのは心地いいかもしれない。
そうしようかな、と答えようとしたが、彩花は何かに気付いたように、ちょっとだけ恥ずかしそうに笑う。
「でも、兄さんとわたしの部屋が同じ香りになっちゃいますね」
そんなことを言われてしまう。
その瞬間、理久は己の頬をぶっ叩いた。
考えるよりも早く、その妄想を振り払ったのだ。
パァン! と小気味いい音と、「兄さんっ!?」という彩花の悲鳴が重なる。
今のはダメ、今のはダメです。
自分の頬を瞬時に叩いたことを、ナイス判断だと褒め称えたい。
しかし当然、彩花は困惑していた。
「兄さん、ど、どうかしたんですか……!?」
「……いえ。なんだか頬が痒くなったので。クモが這い上がってきたのかと思いまして……」
「えっ……」
苦し紛れの言い訳をすると、彩花は本気でドン引きしたように身を引いてしまう。
適当なことを言ったのは悪かったが、引かれたら引かれたで悲しい。
しかし、どこにもクモがいないことがわかったらしく、彩花はほっと息を吐いた。
気を取り直して、彩花は小ぶりの瓶を持ち上げる。
「それで兄さん。どちらがいいですか? ベルガモットとラベンダー」
「……ラベンダーで」
両手に持って問いかけてくる彩花に、平然を装って答える。
ベルガモットは確かにいい香りだが、彼女の一言のせいで意識してしまった。
『彩花の部屋と同じ香り』と感じながら生活をしていたら、とても落ち着かない。安眠効果が意味を為さなくなってしまう。
どうぞ、と彩花が差しだしてくるので、ありがたく受け取った。
「あとで使わせてもらいます」
「えぇ、ぜひ」
にっこりと微笑んでから、彩花は再び隣に腰掛ける。
クモはまだ姿を現さない。
しかし、先ほどのような緊張で満たされる前に、彩花はすぐに別の話題を持ち出してきた。
「そういえば、兄さん。この間のこと、佳奈には伝えました。後藤くんのことです。言っておくべきだと思ったので」
この間のこと、というのは、後藤に小山内家の事情が伝わったことだろう。
佳奈も黙っていたひとりなのだし、伝えるのは妥当と言えた。
あのときのことを思い出して、ひとり気分が沈みそうになる。
それを押し隠して、理久は答えた。
「佳奈ちゃん、喜んでたでしょ」
「え……、なんでわかるんですか?」
「まぁあの子、わかりやすいし」
露骨というか、ストレートというか。
言いそうなこと、やりそうなことは大体想像がつく。
それを聞いたから、というわけではないだろうが、彩花は言い辛そうにおずおずと口にした。
「それで、佳奈がまた五人で集まりたい、という話をしていまして……。何を、考えているかは、わたしにもわかってしまうんですが……。るかさんには協力したいですし、ふたりが仲良くしてくれるのは嬉しいです。わたし自身はいいんですが……、兄さんはどうですか……?」
「………………」
まぁ、例によって佳奈はわかりやすい。
後藤は、彩花が隠したがっていた秘密を知ってしまった。
事情を知ったのであれば、佳奈はむしろ好都合だと感じたに違いない。
すべてが明るみになった状態なら、また変化が生じるのではないかと考え、もう一押ししようと思っている。
ここで畳みかけよう、決めてしまおう、という魂胆だ。
そしてそれは、理久から見ても有効打に感じる。
感じてしまう。
小山内理久としては、正直集まりたくはない。
後藤が彩花に踏み出してしまう可能性を、これ以上増やしたくはない。
けれどそれはあくまで、理久個人の、自分勝手な願望でしかなかった。
この場面で「自分はやめておきたい」と答えるのならば、苦しい言い訳かネガティブな言葉を重ねるほかない。
彩花の義兄としてなら、こう答えるしかなかった。
「いいんじゃないですか? るかちゃんも、佳奈ちゃんには会いたがってるし」
理久の言葉を聞くと、彩花は少しだけほっとした顔になる。
気まずそうに長い髪に触れながら、静かに答えた。
「すみません、佳奈も悪い子ではないんです。ちょっと空回るときがあるというか、良くも悪くも真っ直ぐというか……」
「大丈夫です。わかってますから」
彩花は暗い顔をしているものの、彼女にとって本当に大切な友人なんだろう。
ふたりでいるときの屈託ない笑顔や、遠慮のない物言いが彼女たちの親密さを示している。
そしてそれは、きっと佳奈も強く感じていた。
彼女が空回りしているのは結局、彩花のためだ。
そのエネルギーが向けられる先が自分でなければ、理久も苦笑いするくらいで済んだかもしれない。
またあの五人で集まるのか……、と考えると憂鬱になってしまう。
彩花とふたりでいられれば、それで幸せなはずなのに。
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