第33話
「……宿題、終わんないなあ」
背もたれに身体を預け、はあ、とため息を吐く。
夏休みも終盤に差し掛かり、二学期も迫ってきた今日この頃。
理久はまだまだ残っている宿題を前に、うんうん、と唸っていた。
「今年の夏休みは、いろいろあったからな……」
ぺらりとノートをめくって、ひとり呟く。
三枝母娘がこの家にやってきてからというもの、何かと心配することや気を遣うことも多かった。
そちらに心を砕くことも多く、宿題の消化ペースはだいぶ悪い。
「いや、ただの言い訳か……。集中できてないだけだよなー」
うーん、と伸びをする。
大体、リビングやキッチンならともかく、自室では彼女たちの気配を感じない。
なんとなーく集中できず、なんとなーく進んでいないだけなのだ。
単純にイマイチやる気が出てないだけで、決して彩花たちのせいではない。
「……ん」
彼女らのことを考えていたら、数少ない影響が理久の鼓膜を揺らした。
彩花が部屋から出てきたらしく、鍵と扉を開ける音がわずかに届いたのだ。
いつもなら足音が続くはずだが、今日はない。
その理由は、彼女の声でわかった。
「兄さーん……? そろそろ、お昼ご飯の準備をしませんか?」
こんこん、とノックされて、思わず笑ってしまう。
あれを直訳すると、『お腹がすいたので、早くご飯食べたいです』になる。
理久が声を掛けるのを待つことなく、彼女のほうから言ってくれるのが嬉しかった。
今までの彩花なら、自分の都合を優先することなんてなかったはずだ。
「はいはーい。すぐ行きまーす」
いやあお昼ご飯を作らなきゃいけないからなあ、やるべき家事だからなあこれも、と喜んでシャーペンを机の上に転がした。
階下に降りると、既に彩花は準備に入っていた。
パジャマの上にエプロンを付けて、長い髪を後ろで括っている最中だ。
彼女は家にいる間は大抵パジャマ姿でうろうろし、細い腕と脚を晒している。
その姿は、彩花が「これからは家族に近付けるよう頑張ります」という誓いの証明だ。
それはこれ以上ないほど嬉しいことだけれど、正直に言えば目に毒ではある。
けれど、それを彩花に悟られるわけにはいかないし、そう考えること自体が彼女に対する非礼だ。だから、理久はちょくちょく脚に目がいきそうになって、そのたびに己の頬を叩き、「兄さん!?」と驚かれることも多かった。
今は蚊がいる、で済ませているけど、冬はどうしようと悩んでいる。
彩花はキッチンに立ち、むん、と両手を掲げていた。かわいい。
「兄さん。今日は何を作るんでしょうか」
「冷やし中華はどうですか?」
「冷やし中華……!」
パンと両手を合わせ、彩花は表情を明るくさせる。
お気に召したようだ。
彼女はエプロンを揺らしながら、まずは手を洗い始める。
それを横から眺めたものの、理久は慌てて視線を逸らした。
なんというか、女子のエプロン姿ってそれだけでめちゃくちゃかわいいと思うんですけれど。
それがパジャマの上からとなると、より破壊力があるというか……。
しかも横からとなると、ハーフパンツの組み合わせがより強い。
「はあ……」
「どうしたんですか、兄さん」
「いえ、俺はきっと地獄に落ちるんだろうな、と思いまして……」
「と、突然どうしたんですか……?」
心配されてしまうが、その理由は話せないし、心配される価値もない。
さすがに気持ち悪すぎる。
いつか自分が死んだら、天国で彼女のお父さんに怒られる日がくると思っていたが、地獄行きの自分には無縁なのかもしれない。
そんな遠い未来に思いを馳せつつ、理久は調理を進めていく。
「彩花さん、野菜切ってくれます?」
「はいっ」
張り切った声を聴きながら、理久は薄焼き卵に取り掛かる。
慎重に切り進めていく彩花を見ながら、ふと湧いた疑問を投げかける。
以前は躱されたけれど、今なら受け止めてくれる気がしたのだ。
「彩花さんって受験生じゃないですか」
「はい。三年生ですから」
「料理もそうだけど、家事に時間使ってて大丈夫ですか? 何なら、受験が終わるまでは俺が受け持つよ。前は全部ひとりでやってたんだし」
キュウリをゆっくり切っていた彩花が顔を上げた。
ふわり、と微笑む。
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