第137話



「に、兄さんは……、家を出るんですか……? ど、どうやって生活していくんですか……っ」


 


 彼女は戸惑いながら、口を開く。


 いきなり「家を出ていく」と言われたら、そうなるのも仕方がない。


 でも何も、理久だって思い付きで言ったわけではない。


 彩花を安心させるために、兄を見送れるように、理久だって考えて動いていた。



「父さんに、相談していたんです。何とか一人暮らしをさせてもらえないかって。やっぱり、他人との生活は息苦しい、年頃の女の子と暮らすのは気を遣うって。父さんも最初は困ってましたけど、最終的には同意してくれました」



 父自身も、後ろめたさはあるのだろう。


 理久がそうしたいのなら、と言ってくれた。


 自分の再婚で実の息子を追い出すことになること、そもそも彩花とあれだけ上手くやっていたのに何で、という思いはあるだろうけれど。


 それでも、理久の言葉はそれほど不自然でもない。


 わかった、と言ってくれた。



 ただ、今すぐ、というわけにはいかない。


 一応、理久だって告白が上手くいく可能性も、考えてないわけでもなかった。


 もしそうなら、家を出る必要はなくなる。


 ……その心配は、先ほどなくなってしまったけれど。


 こうなった以上、一晩でもいっしょにいることは避けたほうがいいはずだ。



「今日の夜には家を出ていきます。ちょっとの間、るかちゃんの家にお世話になることになってて。そのあと、本格的に一人暮らしをします。だから彩花さん、安心してください。あそこは彩花さんの家だし、俺も大変な思いをするわけじゃない。今までどおり、過ごしてくれればいいですから」



 ふっと息を吐く。


 言えた。


 伝えたいことは、すべて伝えた。


 だから、これでいいんだ、という気持ちになれる。



 彩花は心配と戸惑いを混ぜたような顔で、理久を見つめていた。


 そんな表情をする必要なんてないのに。


 理久のことなんて、もう忘れてしまっていいのに。


 そうして、穏やかに暮らしてくれればいい。


 理久も、自分の気持ちを吐き出せてよかった、と思っている。


 この思いを抱えたまま、いっしょに暮らすほうが何倍も辛い。


 もしかしたら、なんて淡い期待にすがる生活は、虚しいだけだ。


 


 だから、理久は憑き物が落ちたようだった。


 失恋の痛みは大きいけれど、それはあくまで普通の恋愛の範囲内。


 このままいっしょにいれば、自分が壊れるほどに大きな痛みがくるのは目に見えていた。


 だから、これでよかったんだ。


 思い詰めたような顔をしている彩花に、理久は告げる。



「――ありがとう、彩花さん。勝手なことを言って申し訳ないけど……、俺はあなたに会えて、よかった」



 彩花ははっとした顔でこちらを見た。


 それが、別れの挨拶だと悟ったらしい。


 嘘偽りのない、心からの言葉だったから。


 そうだ、それは全く嘘じゃない。


 この生活は苦しかったけれど、楽しいこともたくさんあった。


 好きな人といっしょに暮らしているのだ、楽しくないわけがない。


 人を好きになるのは、とてもとても素敵なことだ。


 それを実感したのだから、それで十分だった。



「ま、待ってください、そんな、そんなこと……」



 彩花は辛そうに目を細めて、こちらを見る。


 ぐっと引き結んだ唇は、その苦悩が伝わってくるようだった。


 別れを惜しんでくれるのは嬉しい。


 引き留めてくれるのは嬉しい。


 だけど、これはどうにもならないだろう。


 それは、彩花の表情が物語っていた。


 彼女は、理久の想いに応えられない。



「た、確かに、びっくりしました……。わたしは、兄さんのことは、兄として好きです……。でも、そんなふうに、考えたことは、なくて……。男性として、見たことは、なくて……。本音を言えば……、困って、しまいます……」


 


 彩花の声は、ぼそぼそと小さくなってしまう。


 改めて口にされると、少しだけ切ない。


 やっぱり、微塵も意識されていなかったらしい。


 彼女を困らせてしまったのも、辛い。


 けれど、理久だっていい加減限界だった。


 申し訳ないけれど、わがままを言わせてもらいたかった。


 ただ、それ以上のわがままを彩花は口にする。



「でも……、わたしは……。兄さんがいなくなるのは、嫌です……。兄さんといっしょに暮らすのは、楽しかったです。すごく穏やかな気持ちになれたんです。嬉しかった。すごく、すごく……。兄さんは、わたしを暗い場所から引っ張り出してくれたのに。それなのに、兄さんはどこかに行ってしまうんですか……?」



 ……その目は、やめてほしい。


 彼女はきゅっと手を握ったまま、悲しそうにこちらを一心に見つめている。


 今まで理久は、彩花の想いに応えてきた。


 兄として、できるかぎりのことをやってきたと思う。


 だからこそ、彩花は理久を信頼してくれたんだろうし、慕ってくれたんだろう。


 でもそれは、彩花にとっては兄としての想いでしかない。


 理久は、ある程度は義妹に対する情もあるけれど、好きな人に対する想いのほうが強かった。



 だから、今回ばかりは応えられない。


 だって、彩花が妹として理久に甘えている時点で、答えは覆しようがないからだ。


 彩花が理久に兄としていてほしい、と願っても、理久は彩花を妹として見られない。


 それを答える。



「そう言ってくれるのはすごく嬉しいです。俺も、彩花さんとの生活はすごく楽しかった。でももう、いっしょには暮らせないでしょう。俺は、あなたのことをひとりの女性として好きなんです。妹してじゃない」



 彩花はぐっと言葉に詰まる。


 当たり前だが、「ひとりの女性として好き」と伝えても、彼女は微塵も嬉しそうじゃなかった。


 妹として、と告げたら、きっと彼女はふわりと微笑むんだろうけど。




――――――――――――――――――――


 あとがき


 次回、3話更新で最終回です。



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