最終話

 彩花は視線を地面に落として、たどたどしく答える。



「わたしは……、兄さんをひとりの男性としては見られません……。でも、いっしょにはいてほしいんです……。それは、いけないことですか……?」



 ……その言葉は、意外だった。


 一瞬、考え込んでしまう。


 家にはいてくれていい、ということだろうか。


 告白は受けられない、だけど家を出ていくまではしなくていい、と彼女は言ってくれている。


 そう考えて、すぐに思考を振り払った。


 それこそ、彩花が言いそうなことだ。


 理久を追い出すくらいなら、自分が出ていく、もしくは自分が我慢する。


 いたずらされそうになったとき、それを受け入れてしまったのが彼女だ。


 自己犠牲でどうにかなるなら、躊躇なく実行するだろう。



 だから、それは呑めない。


 彩花に強いストレスを与えてまで、のほほんと暮らすつもりはない。



「それは、できないです。俺は、彩花さんにこれ以上迷惑を掛けたくない」



 きっぱりと断ると、彼女は傷付いた顔をした。


 ……そんな顔をしないでほしい。


 こんな自分勝手に思いを吐き出すような男を。


 彩花は唇を引き結び、辛そうに目を伏せる。


 泣き出してしまいそうだった。


 ぶんぶんと頭を振って、彼女は一歩前に出る。


 その目には、強い意志が感じられた。


 胸に手を当てて、彩花は言う。



「迷惑なんかじゃ、ないんです……っ! わたしは、兄さんにいっしょにいてほしい……っ! これは、嘘偽りのない、わたしの心からの想いなんです! わたしは、兄さんが好きです、それじゃ、それじゃダメなんですか……? た、確かに、好きという気持ちに、違いは、あるかもしれません、けど……っ」



 勢いはしぼんでいく。俯いてしまう。


 切ない彼女の想いは、とても嬉しい。


 大雑把に括れば、自分たちは両想いなんだろう。 


 好きという感情には、たくさんの意味がある。


 家族として好き、も、女性として好き、も。


 同じであって、全く異なるもの。


 そこを互いにどうにかできないからこそ、すれ違いが生じている。


 けれど、そこで彩花ははっとして顔を上げた。


 考えがまとまっていないのか、たどたどしく、ゆっくりと口にした。



「兄さんは……、わたしのことが、好き。それは、恋人になりたい、って意味、でしょうか」


「……そう、ですけど」



 そうなれることを求めていた。


 兄妹ではなく、恋人になりたい。


 これが、理久の好きという気持ちだ。


 彩花はなおもたどたどしく、それでも思いを口にしていく。



「わたしは……、兄さんのことが、妹として好き、です。きっと、どの男性よりも……。そこに、間違いは、ありません。そして、恋愛は……、恋人は……、両想いから始まるほうが、稀、だと知りました……。試しに付き合ってみる、というのもあり得ない話では、ない……、と……」



 それは以前、文化祭の帰り道で彩花が語っていたことだ。


 佳奈から伝えられた恋愛観。 


 理久も昔は誤解していたけれど、大人になればなるほど、そうじゃないと思うようになった。


 恋愛は、両想いから始まるばかりではない。


 高校生になれば、付き合う理由が「告白されたから」から始まる恋人はいくらでもいるし、そこから相思相愛に発展するケースもちゃんとある。


 好きになれるかもしれないから、試しに付き合ってみる、という選択肢は、そこまで珍しいものじゃない。



 だからこそ佳奈は、彩花に後藤と付き合うことを強く勧めていた。 


 後藤は絶対に彩花を大事にしてくれるだろうし、良い人だから信頼できる。


 しかしそこに、「彩花は後藤が好き」という感情はない。


 でも、恋人は成立する。



 だから、るかは危惧していたのだ。


 高校生になったら、彩花ちゃん絶対恋人作っちゃうよ、恋愛観だって変わるだろうし、と。


 彩花が「試しに付き合ってみよう」と思える人が現れるかもしれない、と。



「――――――ぇ」



 そこで、ようやく。


 彩花の言いたいことが、伝わった。


 理解するのと、彩花が口にするのは同時だった。


 彼女は胸に手を当てて、必死に言葉を並べていく。



「お付き合いには、そういう形がある、と聞いています……。それでも恋人同士が成立するのなら……、わたしは。恋人を選ぶのなら、兄さんみたいな人が……、兄さんが、いいです。兄さんが、わたしといっしょにいてくれるのなら……。わたしと、そういう関係になるのは、どう、でしょうか……?」



 切なく訴えるような、彼女の瞳と、表情。


 それではまるで、彩花のほうが告白しているようではないか。


 期待と不安をないまぜにしたような、答えを怖がっているような顔だった。


 理久はむしろ、すべてを諦めきって告白したから、こんな顔はできなかったけれど。


 彩花がそんな表情を見せてくれるなんて、考えたこともなかった。



 でも、その言葉は。


 あまりにも夢のようで。


 理久は、すぐには返事ができなかった。


 だって、だってそれは。


 そんな――。



 理久が言葉に詰まっていると、彩花は肩を落としてしまう。



「……すみません。都合がいいですよね。兄さんはきっと、恋人同士がするようなことを、わたしに望んでいる。今の生活が惜しいわけじゃない……。多分わたしは、恋人になろうとしたらすごく時間が掛かってしまうと思います。もしかしたら、できないかもしれない。なのに、恋人になろうだなんて……」



 そのまま、消え入りそうな声で前言を撤回してしまいそうになる。  


 理久は慌てて、「ま、待ってくださいっ」と両手を突き出した。


 よく考える。


 彼女の表情をよく見る。


 これは、これは本当に、慎重に彼女の表情を見極めなければならない。


 だって、彩花が理久に気を遣わせないために言っているだけの可能性は、十分にある。


 自己犠牲ならば、これは決して受け入れてはいけない。


 ゆっくりと、確かめるように問いかける。


 


「彩花さん……、それ、は本心ですか……? 俺に、遠慮してるわけじゃないでなくて……? 俺を家から追い出すのが心苦しいから、自分を殺して言っているだけじゃなくて……?」



 そう言うと、彩花は辛そうに首を振る。


 視線を落として、呻くように答えた。



「自分を殺すのなら、『恋人でも何でもなります、わたしを好きにしていいです』と答えます……。でも今のわたしは、そんなことは言えないですし……、兄さんだって怒るでしょう……。だから、正直に答えているんです……」



 それは、確かに。


 もしも、家に来たばかりの彩花に理久が迫れば、彼女は内心どう思っていたとしても、理久を受け入れたかもしれない。


 彼女はそれほどの覚悟を持っていたけれど、この生活の中でその覚悟は捨ててくれた。


 ならば。


 ならば、それは本当に――、本心なのか?


 あまりのことに脳が痺れて、足が震えそうになってしまう。


 信じられない気持ちでいっぱいになりながら、彩花に答えた。



「俺は……。彩花さんが、恋人になってくれるのなら、何もいらないです。俺が辛かったのは、この気持ちを秘めていることと、彩花さんに恋人ができてしまうことだから……。恋人らしいことは……、したいとは思いますけど……、どうしてもってわけじゃない。今までどおり、暮らしていけるのなら……、俺だって、いっしょにいたいんです……。それだけで、いいんです……」


 


 声が、震える。


 それでも、自分の正直な気持ちを吐露した。


 それを聞いて、彩花は目を見開く。


 すぐに顔をくしゃりとさせた。


 唇を小さく噛み、震える瞳でこちらを見る。


 理久はそれでも信じられなくて、「彩花さんは、いいんですか……?」と口にした。


 とっくにその声は涙声になっている。


 けれど彩花も、同じように声を震わせていた。



「わたしは……、兄さんといっしょにいられるのなら、それがいいです……。兄さんこそ、これでいいんですか……? 今までと、何も変わらないかも、しれないのに……」


「そんなこと、ない……、そんなことないんです……。俺は……、俺は……、こんなにも、嬉しいことは……、ないんです……っ」



 我慢できなかった。


 手のひらで目を覆っても、その間からポタポタと涙がこぼれ落ちていく。


 熱い熱い涙が手のひらから溢れていった。


 ぐうっと感情がせりあがるばかりで、コントロールが効かない。


 格好悪い、と思いつつも、今更だった。


 今までずっと、格好悪いところを見られてきた。


 そして、これからも見られることが決まっている。



 それがどんなことよりも嬉しかった。


 理久は涙を流したまま、顔を上げる。


 すると、彩花もいっしょになって泣いていた。


 彼女も理久につられて、随分と涙もろくなってしまったように思う。


 ふたりで、いつまでも涙をぽろぽろとこぼしていた。


 初めて本音をぶつけ合った、あの日のように。


 けれど、いつまで経っても涙は溢れて、湧き上がる感情は止められなかった。



 その日、義妹が好きな人になった。

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