エピローグ 彩花と理久

 春休み。


 学生の醍醐味とも言える時間を、理久はなんとなくリビングで過ごしていた。


 手には彩花から借りた小説。


 彼女のオススメだけあって思った以上に面白く、昨日から読みふけっている。


 自室で読まずにわざわざリビングに持ってきているのは、自分がオススメした本を理久が読んでいると、彩花が嬉しそうに、そしてちょっぴり誇らしそうな顔をするからだ。


 かわいい。



 でも、読むタイミングを間違えたな、と思わないでもない。


 昨日、彩花は「明日は寝る日です!」と嬉しそうに宣言していて、その宣言どおりに今日は全く部屋から出てこなかった。


 時刻はお昼を過ぎたあたり。


 そろそろ起きてくるかな、と思うのだが。


 彼女は寝るのをこよなく愛しているうえに、春休みとあって気を抜き放題。


 もしかしたら、もっと寝ているかもしれない。 


 幸せそうに寝坊を満喫している彼女は、想像するだけで可愛らしい。 


 


 そんなことを考えていると、とんとんとん、と階段を降りてくる音が聞こえた。


 ぺたぺた、という足音が近付き、リビングの扉が開く。



「おはようございます、兄さん……」


「おはよう、彩花さん。といっても、もうお昼ですけど」


「よく眠れました。幸せでした」



 彩花は本当に幸せそうに微笑んでいる。


 最近買い替えたらしいパジャマはピンク色で、前とさほど変わらないデザインをしている。


 ただ、前と同じくらいに可愛らしいし、高校生を目前にしたせいか、彼女は以前より大人っぽくなった気がする。


 そんな女性がパジャマ姿でぽやぽやした顔をしているのだから、ドキドキはするものの。 


 その感情を必死で隠さなくて済んだのは、とてもとてもありがたい。



「顔洗ってきますね」


 


 照れくさそうに笑って、彩花は廊下に引っ込む。


 彼女は、以前よりも隙を見せてくれるようになった気がする。


 今も長い髪はぼさぼさしていて、顔も眠そうだった。


 以前ならちゃんと身だしなみを整えてから、挨拶していたように思う。


 もちろん、そんな姿を見せてくれるようになったのだから、理久としては嬉しいけれど。


 果たして男として見られているかどうかは、疑念が湧くところだ。


 まぁそんな些細なこと、どうでもいいんだけど。



「あ。兄さんは読書中でしたか?」



 顔を洗ってさっぱりした彼女が戻ってくる。


 髪は綺麗に整えられて、見惚れるくらいの美貌を見せていた。


 そんな人がパジャマ姿で隣に座るのだから、嬉しいやら恥ずかしいやら。



「はい。彩花さんに借りた本、面白くて」


「ふふ。嬉しいです。どこまで読みましたか――」


「ええとですね、もう終盤で――」



 そんな他愛もない話をしていると、彩花は何度もくすくすと笑う。


 理久も同じように笑っていた。


 愛おしさで胸がいっぱいになったところで、ふと会話が途切れる。


 すると、理久の口からぽろりと言葉がこぼれ落ちた。



「彩花さん」


「はい?」


「大好きです」



 溢れんばかりの想いをほんの少しだけ吐き出すと、彩花は目をぱちくりとさせた。


 頬をわずかに赤く染めて、髪を撫で始める。


 視線をうろうろさせながら、静かに答えた。



「あ、ありがとうございます。……いや、あのー……。照れますね……」



 気まずそうに呟く彩花に、理久は詫びる。



「……すみません。気まずいかもしれませんが、これを言うのだけは許してください。こういう思いを我慢するのが、ずっと苦しかったので」


「あ、いえいえ、その、全然いいんですけど」



 真面目に謝罪する理久に、彩花は慌てて両手を振る。


 そして、遠慮がちにふっと視線を逸らしてしまう。



「ただ、これでいいのかなと……。兄さんといっしょにいたい、というのはわたしのわがままです。兄さんはそれを受け入れてくれました。でも、わたしはその……、恋人、として、返せることは、少ない、というか……。好き、と言ってもらってるだけなので……」



 恋人、好き、という言葉を恥ずかしそうにもにょもにょしながら、全体的に暗い様子で彼女は答える。


 理久と彩花は恋人同士になったわけだが、その関係はほとんど変わらない。


 今のように理久が好きだと伝えることはあれど、それ以外の部分は驚くほど今までどおりだった。


 それだけに、彩花は気を揉んでいるらしい。


 しかし、それは不要な心配だろう。



「俺は、それで十分です。こんなふうにいっしょにいられて、好きと言う気持ちが伝えられて。だれからも否定されなくて。それに元々、これだけ長い間をいっしょにいられるということ自体が、恋人同士ならとても幸せなんだと思いますよ」



 そう伝えると、彩花は少しだけほっとした顔になる。


 そもそも、そうして気に病まれると、こちらとしても困ってしまう。


 彩花に負担を掛けないために、家を出る準備までしていたのだから。


 後押しするように、理久は口を開いた。



「それに、たとえば……。彩花さんがだれかと付き合ったとして、すぐに恋人らしいことはしないでしょう? ゆっくりでいいんです。彩花さんが受け入れてくれて、俺はもう十分幸せなんですから」


 


 まぁこれから先、永遠に兄と妹のままだったら、ちょっと悲しくなってしまうけれど。


 彩花はその言葉に、ふわりと微笑んだ。



「兄さんが、そう言ってくれる人でよかったです。あまり恋人らしいことは、わたしもまだ抵抗がありますし……。お付き合いも、それで躊躇っていたところもあるので……。佳奈も、『付き合っても、絶対にすぐ許しちゃダメだからね』って口酸っぱく言ってたりとか……」


「佳奈ちゃんが? 相変わらず、信頼ないなぁ」


「いえ、これは後藤くんのときから言っていたので……。護身術みたいなのも教えられました……」



 苦笑いする彩花に、理久も笑うしかない。


 佳奈なら言いそう、やりそうなことだった。



 理久と彩花が恋人同士になったことは、佳奈と、るかには伝えてある。


 佳奈は複雑そうな顔をしていたものの、「よかったんじゃない? おめでとう」と最後には言ってくれたらしい。



 るかは「嘘ぉ!?」と素っ頓狂な声を上げてしばらく固まったあと、そのあとわんわんと泣き出した。


 ずっと心配していたし、彼女の家にもお世話になるつもりだった。


 だからこの形で収まって、るかは心から安心したのだろう。


 末永く続いてくれぇ~……、と泣きながら言っていた。


 やっぱり彼女はふたりのお姉ちゃんだ。



 ただ、彩花が心配しているのなら、はっきりと言っておくべきだろう。



「彩花さん。俺は彩花さんが嫌がるようなことは絶対にしないし、望んでいないことはしない。そこは誓うから、心配しないでください」



 そう伝えると、彩花は目を見開く。


 そして、穏やかに笑った。



「そこは、はい。信頼しています。兄さんは、わたしが嫌がるようなことは、絶対にしない人です」



 なぜだか、とても嬉しそうに彼女は言う。


 彩花からの信頼を感じて、今までは苦しくなることもあったけれど。


 今はとても、幸せだった。


 これだけで、理久にとって考えられないほどの幸福なのだ。



「でも、ですね。兄さん」



 彩花は視線を前に向けて、静かに言う。



「わたしも、努力しようと思うんですよ。初めて、いろいろ考えてみたんです。恋人であること。恋人らしいこと。もちろん、今すぐには難しいです。でもそれは、兄さんだから、じゃありません。きっとほかの人相手だって、わたしはまだまだ臆してしまうと思います」



 でも、と続ける。



「兄さんなら、嫌じゃありませんから。わたしも、兄さんのことが好きですよ」



 そう言いながら、彩花は理久の手の上に手を置いた。


 驚くほどにやわらかく、同じ人間とは思えないほどにすべすべした肌。


 彩花の爪は、るかが約束どおりにネイルを塗ったので、ほのかにピンクに染まっていた。


 綺麗な手がより華やかな輝きを持って、理久の手と重ねられている。



 それが握られることも、ほかの部分に触れることはないけれど。


 こうして小さな接触なら、彩花は努力してくれる。


 その思いが。


 彼女の言葉が。


 すぐに、「あぁ……、やっぱり恥ずかしいですね……」と顔を赤くして、手を離してしまうところが。


 愛おしくて、愛おしくて。


 そして、この思いを伝えてもいいという事実が。


 堪らなく、嬉しかった。



「ねぇ、彩花さん」


「はい?」


「ずっと前の話になるんだけど――、彩花さん。田んぼに突っ込んだ男の人を、助けたことがない?」


「…………? ……あっ。あったと思います。部活の帰りで……、自転車ごと田んぼに突っ込んだ学生の方がいて……。え、でも、あのとき……。兄さん、なんで知ってるんですか?」


「さて、なんででしょうねぇ。さ、お昼ご飯を作りましょうか。彩花さん、なに食べたいですか?」


「に、兄さんっ。はぐらかさないでくださいっ。パスタがいいです!」



 笑いながらキッチンに向かうと、彩花は怒りながらもついてくる。


 今日もいっしょにご飯を作って。


 いっしょにご飯を食べて。


 寝る前にはおやすみ、と言い合って。


 気持ちが溢れそうになったら、好きだ、と伝えて。



 恋人らしいことはしてみたいけど、そんなことよりも今が幸せだった。


 いつか、いつの日か、彩花が受けて入れてくれたらいいな、とぼんやり思うだけ。


 今はこうして、いっしょにいられる幸せを噛み締める。



「……ところで、兄さん」


「はい?」


「わたしたちの関係……、お母さんたちにどう説明します……?」


「……内緒、にはしておきたい、ですけど……。もし、バレたら……、あんまりよくない、ですよねぇ……」


「はい……」


「…………」


「…………」


「……今は、一旦保留して料理に集中するのはどうでしょう?」


「賛成です」



 まぁ問題はまだまだ山積みかもしれないけど。


 ふたりでなら、きっと乗り越えていけると信じたい。


 こうして、いっしょに暮らしていけたのだから。

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