第82話
理久は新たな問題を抱えてしまった。
もしも後藤に自分たちのことが露見すれば、この生活はどうなってしまうかわからない。
大きな懸念点ではあるものの、現段階では何かが大きく変わることはなかった。
ならば、そればかり気にしても仕方がない。
そして、彩花たちと生活する中で、徐々に変化していったものがある。
食生活だ。
「お腹減ったな……」
理久はふと空腹感を覚え、お腹を擦った。
部屋の時計を見ると、二十三時を過ぎたあたり。
大体いつも二十四時くらいに寝ているので、ぼちぼち寝る用意を始めようかなと言う時間だった。
けれど、この空腹はいかんともしがたい。
以前はこんなこと、ほとんどなかったのに。
「胃袋が大きくなったのかもしれないな……」
呟きながら、部屋を出る。
キッチンで夜食でも探そう、と思い立ったのだ。
夕飯を食べるのは大体十八時から十九時の間と、父と暮らしていたときよりも早い。
それに加えて、普段の食事以外に何かしら彩花と食べることも多かった。
だからこその空腹らしい。
以前は夜食なんて食べようとも思わなかったし、そもそも食にあんまり興味もなかった。
これが前進なのか、後退なのかはわからないけれど。
暗いキッチンに電気を点け、何か食べ物がないか視線を動かす。
そこでふと思った。
「ずっと前の彩花さんみたいだな……」
彩花に聞かれたら「兄さんっ!」と怒られそうな独り言を、苦笑とともにこぼす。
彩花も空腹に耐えかねて、ひとりキッチンで食パンを食べていた時期があった。
今はしっかり食べているので、夜中にお腹が減ることもなさそうだけれど。
もしそうなっても、今の彼女なら普通に何か食べるだろう。
「らーめん……」
ごそごそとキッチンを漁っていると、袋麺を発掘する。
夏休みの途中まで毎日のようにインスタント食品を食べていたが、彩花の要望で昼食もちゃんと作るようになった。
土日でもそうするようになったので、しばらくこの手のものは食べていない。
「らーめんにするか……」
夜食と言えばらーめんだ。多分。
麺を茹でるだけでも構わないのだが、せっかくだから野菜も切ろうか。
ネギやもやしなら、冷蔵庫にある。
そこに卵でも落とせば、立派なお夜食だろう。
「すっかり料理に抵抗がなくなったな……」
『せっかくだから野菜も切ろうか』なんて考え、以前なら絶対にしなかった。
彩花といっしょに料理をするようになって、料理自体を楽しめるようになって、ハードルも随分と下がった。
おいしいものを作ろう、という意識が生まれている。
それは明らかに、彩花のおかげだ。
「でも一人前もいらないな~……、残さないけど……」
トントントン、と野菜を切りながらひとりごちる。
おいしく食べるために野菜を投入したいが、量が増えるのはあまり歓迎できない。
胃袋が多少大きくなったところで小食なのは変わらず、今の欲求も「ちょっとだけ食べたいな」くらいのものだ。
そう考えつつも、せっせと野菜を切っていると。
「兄さん?」
リビングの扉が開いて、彩花が顔を覗かせる。
彼女は扉に手を掛けたまま、顔だけをこちらに見せた。首を傾げているせいか、長い髪がさらりと揺れて落ちる。かわいい。
トイレか何かで降りてきて、キッチンに電気が点いていたから覗いた、という感じだろうか。
「何をしているんですか?」
真夜中に兄がキッチンに立ち、湯を煮立ち、野菜を切っていたら気にもなるだろう。
彩花がちょこちょことこちらに寄ってくる。
今日の彼女は、長袖のピンク色のパジャマ。
なんというか、オーソドックスなザ・パジャマというデザインだ。それを彩花が着ていると、同じ家に住んでいることをより意識してしまう。
思わずどぎまぎしそうになるのを堪えていると、彩花は興味深そうに覗き込んできた。
それに答える。
「なんだかお腹がすいちゃって。夜食にらーめんを作ってるんだ。彩花さんは勉強?」
「はい。もうちょっとだけやろうかな、と思ってます」
ちゃんと勉強を頑張っているらしい。偉い。
そこでふと、思い立った。
「彩花さん、よかったら半分食べません?」
「いいんですか?」
理久がそう言うと、彩花はぱっと表情を明るくさせる。
しかし、すぐに身体を引いた。
「あ、でも。兄さんが作ったお夜食なのに」
「いや、これさ。作ったのはいいんですけど、俺、一人前もいらないなあと思っていて。食べてくれるなら、むしろ助かるんですけど」
理久の胃袋の小ささを把握している彩花は、それが本音だと伝わったらしい。
微笑みながら、「それでしたら、ありがたくご相伴に預かります」と嬉しそうに手を合わせた。
そうと決まれば手早く作って、二人分のどんぶりをテーブルに運ぶ。
いつもの席に腰掛けて、「いただきます」と声を揃えた。
香ばしいごま油の香りを湯気とともに感じながら、麺をズルズルと啜る。
何ともジャンキーな味だが、ネギともやしがその感覚を軽減させる。
「おいしい……」
彩花が驚いたように口に手を当て、まじまじとどんぶりを見つめた。
理久は笑いながら、その言葉に同意する。
「夜食って妙においしく感じますよね。物は何も変わらないんですけど」
シチュエーションによって、同じものでも感じる味は違う。
元々あまり食に興味のなかった理久がご飯をおいしく感じられるのは、いっしょに食べる彩花のおかげだ。
それと同じように、彩花も『夜中に食べるらーめん』にシチュエーションの一味が入っているのだろう。
彩花は不思議そうにしながらも、さらにらーめんを啜る。
「お夜食だからおいしく感じるんですね。わたし、以前はお夜食を食べるなんて、したことなかったので……」
以前、というのは、この家に来る前のことだろう。
あの食パンはノーカンだ。
「そうなんだ。夜中にお腹が減ることもなかったの?」
「なくはなかったんですが……。お腹空いたと言っても、母がやめておきなさい、と言っていたので……」
どうやら、三枝家ではそういう取り決めだったらしい。
まぁ夜中の食事はあまり身体にいいものではないし、そう指摘するのも当然かもしれない。
彩花はどんぶりからスープを飲んだあと、はあ、と幸せそうな息を吐いた。
「おいしい……。勉強、頑張れそうです……」
その幸せそうな表情を見ていると、作ってよかったな、と心から思えた。
そしてそのあとは、ふたりして洗面台の前に立ち、歯を磨く。
「なんだか、変な感じがしますね。夜に二回も歯を磨くなんて」
「ね」
笑い合いながら、シャコシャコと歯を磨く。
なんとも穏やかで、幸せな時間だった。
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