第135話

 このまま合格おめでとう! とお祝いをしたいところだが。


 残念ながら、そうはいかない……。


 理久たちはまだ授業が残っているし、彩花は中学校に報告しに行かなければならない。


 ちなみにあのあと、佳奈と後藤が合流したが、彼らも無事に合格を果たせたようだ。


 何せ、三人で大騒ぎしていたので、佳奈たちもすぐに気が付いたらしい。


 彩花は状況が状況だったので、ふたりとも気を遣っていたようだが。


 三人とも合格で、何とも胸を撫で下ろす結果になった。



 るかが心配していた佳奈も、何とか滑り込めたらしく、そのうえ彩花も合格とあって涙ぐんでいた。


 どさくさに紛れてるかが佳奈に抱き着き、「るかさん、大袈裟。そして邪魔」と文句を言っていたが、まんざらでもなさそうだった。 


 全員が安心しきった顔で肩の力を抜いている。



 そのまま彼らは、三人で中学校に向かうようだ。


 別れる頃には短い休み時間は終わりを告げていて、チャイムが鳴り始めるところだった。


「やっばい」とるかとふたりして教室に走っていく。


 るかは短いスカートを揺らしながら、力が抜けた声を出した。



「あー、みんな合格でよかった。これで一安心。いや、本当によかった」


「うん。よかった。ほんとによかった……」


「うん、そこは本当によかった、なんだけど。ということは、理久。理久はもう……」


「あぁ……、そうだね。そうなると思う」


「……」


「ごめんね、るかちゃん」


「いや、わたしは。いくらでも迷惑かけてもらっていいんだけど。理久は、もうそうするって決めたんでしょ?」


「うん。俺はもう無理だから。こうするって決めてなきゃ、どうにもならなかったと思うから」


「……うん。わかったよ、理久。わかってるよ、理久」




 その日は、随分と長い一日になった。


 休み時間には父や香澄からも連絡があり、よかった、安心した、というメッセージを互いに送り合った。


 今日はお祝いにお寿司でも取ろう、という話になっている。


 力いっぱい、お祝いしてほしいと思う。



 ふたりとも今頃、ほっと息を吐いて、気を取り直して仕事に取り組んでいるだろう。


 彩花は佳奈たちとともに、学校帰りにどこかでお祝いしているかもしれない。


 夕食を作る必要はなさそうだが、ちゃんと夜ご飯までには彩花も帰ってくると思う。



 今までの理久だったら明日辺り、お祝いで彩花の好きなものを作ってあげたかもしれない。 


 そんなことをぼんやり考えながら、理久は授業を受ける。


 ほかの人たちは安堵しきっているだろうが、理久の気持ちは既に切り替わっていた。


 やるべきことが、理久には残っているからだ。



「ただいま」



 自宅に帰ってくると、玄関には彩花のローファーがあった。


 もう帰ってきているらしい。


 パタパタとした足音とともに、彩花が玄関にやってきた。



「おかえりなさい、兄さん。今日はありがとうございました」



 ふわりと微笑む彩花は、いつもどおりの彩花だった。


 まだ帰ってきて間もないのか、着ているのは白いセーラー服。


 見惚れそうなくらいに綺麗なのもいつもどおりで、彼女が小山内家の玄関口に立っていることが、今更ながら不思議に思えた。



「彩花さん、もう帰ってたんだ」


「はい。お昼ご飯は、みんなと食べたんですけど。兄さんたちが帰ってくるまでには、家にいたくて」



 律儀な子だ。


 それだけで、理久の頬は緩みそうになる。



「お母さんに連絡したら、泣いて喜んでくれて。慎二さんも、何度もよかった、って言ってくれて。本当に、よかったです。兄さんにも、迷惑と心配をおかけしてしまいました」



 そう言って微笑む彼女を見て、理久の心臓は強く弾む。


 あぁやはり。


 自分は、彼女のことが好きで好きで、どうしようもないところまで来ていた。


 胸が痛む。


 苦しくなる。


 日々大きくなり続けた彼女への想いは、もう破裂しそうなくらいに痛みを伴っていた。


 


 だから。


 ……だから。



「彩花さん」


「はい?」


「ちょっと、歩きませんか。お話ししたいことがありまして」



 理久の提案に、彩花は可愛らしく小首を傾げる。


 髪がさらりと揺れた。


 それに目を奪われていると、彼女はふっと微笑む。



「はい。いいですよ」



 ちょっと散歩に出よう、と誘われたとでも、思っているのかもしれない。


 まぁそれもそうか。


 兄から「ちょっと歩かないか」と言われて、特別な感情を抱くはずがない。


 そんな関係を、理久と彩花は今まで作り続けたのだから。



 


 外に出ると、陽が沈みかけるところだった。


 夕暮の色に染まる中、肌を撫でる風は程よく気持ちがいい。


 少し前まで、風が吹くたびに震えていたというのに。


 


「温かくなってきましたね」


「ね。春ですね」



 彩花に声を掛けられ、笑顔で返す。


 今まで何度も繰り返してきた、季節の話。


 最初は気まずくてそんな話しかできなかったけれど、今は季節の実感をするために話をしている気がする。



 初めて彩花が小山内家に来たとき、うだるように暑い夏の日だった。


 白いワンピースを着た彼女も、ほんのり汗をかいていて。


 初めてスーパーに行ったときも、汗を流しながらふたりで向かったのだ。



 お互いに少しずつ歩み寄るうちに、秋が近付いてきて。


 彼女にお願いされて、彩花の中学校の文化祭に出向いた。


 学校での彼女は普段ともまた違った表情で、友達に囲まれていて。


 るかといっしょに微笑ましく見ていた。


 ……まさかそのあと、佳奈たちにおかしな絡まれ方をするとは、思っていなかったけれど。



 そのあと、空気が冷たい冬になって。


 後藤に自分の気持ちがバレて、それを責められて、反抗して。


 けれど、家の中ではそんな気持ちは出さずに、変わらず彩花といっしょに暮らしていて。


 クリスマスには、マフラーをプレゼントしてもらった。


 彩花は自分に感謝してくれていること。


 それを言葉にして伝えてくれた。


 あんなに嬉しく、そして同時に切なく感じたことは、初めてだった。



 ――思えば、あのときに限界を迎えたのだろう。


 器はいっぱいになっていたし、あとはこぼれ落ちるばかりだった。


 だから理久はあのとき、決めたのだ。



 そして、季節は巡る。


 温かい春になって、彼女は中学生から高校生になる。


 一目惚れしたときに目に焼き付いた、彼女の白いセーラー服姿がもう見られないのは残念だけれど。


 きっと彼女は、豊崎高校の制服もとっても似合うと思う。


 そうして、一年が経って夏休みになったら。


 また彼女は、パジャマ姿でうろうろする生活が始まるのだろうか。



 ――あぁ、しまったな。


 前に、るかと彩花と三人で、いっしょに登校しようと約束したけれど。


 どうやら、その約束は守れそうになかった。

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