第26話



「……悲しい、とか。辛い、とか。そんな言葉じゃ言い表せないよな……」



 真っ暗な部屋の中。


 廊下のわずかな光が、彩花の寝顔を照らしている。


 眠りながら静かに涙を流し、一体彼女はどんな夢を見ているのだろう。



 三枝彩花も三枝香澄も、どん底にいる。


 会社を失い、家を失い、父を失い、平穏な生活があっさりとなくなった。


 何もかも失って、今ここにいる。


 泣きながら、疲れて眠っている。



 父が手を伸ばしたけれど、彼女たちがどん底なのは変わらない。


 生活の心配が多少払拭されたところで、彼女たちはずっと暗闇を歩いている。


 穏やかな生活でないことは、今の彩花が証明している。


 彼女が心から安心して眠れることは、もうないのかもしれない。



『気にしないでください。お父さんがいつも言ってるんです。『困った人がいたら、助けてあげなさい』って。お母さんも、理由を話したら怒らないと思いますから』



 理久が初めて彩花に出会ったあとき、彼女はそう言って笑った。


 父の教えを守り、自身が汚れることも厭わずに理久を助けてくれた。


 本当に彼女は、父親のことが大好きだったんだろう。


 そしてそれは、きっと香澄も。



 自分たちだけ助かるわけにはいかない、と保険金を退職金に回したのは、彼のその考えがあったからではないか。


 理久は彼のことを何も知らない。


 けれど、彩花が父親の教えどおり、手を差し伸べたことで理久は恋に落ちた。


 そして今、自分たちはいっしょにいる。


 そう考えると、不思議な因果だと思う。


 しかし彼は、もうこの世にはいないのだ。



「………俺に何か」



 できることがあるだろうか、と言い掛けて、呑み込む。


 踏み込めない。


 自分は彼女に踏み込めない。


 どうにかしたい、と思いはあるのに、その方法はあるのに、他人という壁に阻まれて、その前に立ち尽くしている。


 気持ちがさらに沈み込むのを感じながらも、これ以上、ここにいてはいけない、と頭が警鐘を鳴らす。



 さっさと、この場を立ち去らないと。


 ようやくタオルケットを掛けようと腕を持ち上げるが、同時に彼女が目を覚まさないか心配になる。


 そのせいで、ついつい寝顔を見てしまうが――。



「……っ」



 恐れていたことが、起きた。


 彩花が、目を覚ましたのだ。


 暗い部屋の中で、それでも彼女の大きな目が開いたことがわかる。



 その瞳が静かに揺れて、暗闇を前にパチパチと動いた。


 混乱しているのが伝わる。


 ただでさえ、住んで数日の家のリビングだ。


 それに加えて照明もなく、視界は横になっている。


 すぐに判断できないからこそ、彼女は起き上がらない。



 ここで理久が、「あ、ごめん。起こしちゃいましたか」とでも言えば、きっと今までどおりだった。


 彩花はすぐさま起き上がり、居眠りしたことを詫びる必要もないのに詫びるのだろう。


 そうなれば、今までどおりのぎこちない生活が続いたに違いない。



「……ぁ」



 彼女の口から小さな、本当に小さな声が漏れる。息遣い、と見紛うほど。


 その理由は明白だ。


 理久と目が合ってしまったから。



 暗闇の中で、お互いの視線が交差する。


 理久は、寝顔を見た後ろめたさや動揺で、すぐには声を出せなかった。


 けれど、視線は交わったまま。


 お互いに目を見つめたまま、硬直している。


 なんと、なんと言うべきだろう、と頭を回転させていると、彩花が妙な反応を示した。



「……っ」



 彼女の瞳は揺れて、瞬きが徐々に多くなる。ぱち、ぱち、と長いまつ毛が何度も上下した。


 小さな唇はいつの間にか閉じられて、きゅうっと真一文字になっている。


 かと思えばすぐに開き、そこから熱い息が漏れた。


 はっ、はっ、と短く、小さな息遣いが無音の部屋に浮かぶ。


 それが徐々に大きくなり、彼女の細い身体が呼吸で上下し始めた。


 瞳は大きく見開かれて、そこには理久の姿を映している。



 その表情が物語るのは、恐怖だった。


 彼女は明らかに、理久に怯えていた。


 けれどそれを必死に抑え、何とか声を出さないようにしている。



 理久は混乱したまま、その顔を見つめることしかできない。


 どうして、どうしてそんな顔をするんですか。


 何か言わなきゃ、と思うのに、言葉を紡ぐには思考が渋滞しすぎている。



 そして、驚くべきなのは。


 彩花が、その表情をさらに変化させたこと。


 彼女は一度、きゅうっと眉根を寄せて、その目を辛そうに細める。


 唇を噛んでいるのに、それでも小さな唇の震えは止まらない。



 やがて。


 彼女は再び目を閉じた。


 強張った表情は少しも消せていないけれど、下手くそな狸寝入りを始めたのだ。


 逃げ出したい、と聞こえてきそうな表情を滲ませたまま。



「――――あぁ」



 理久は、そこで悟ってしまった。


 彼女が何を思い、何を感じて眠ったふりをしたのか。


 気付きたくなんてないのに、彩花の表情はそれだけ雄弁だった。

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