第89話
幸い、彩花のダイエットは順調だった。
毎朝、彩花と理久はともに走っているし、カロリーオフ料理も今のところ問題はない。
効果も出ているようで、時折彩花がそっと近づいてきて、真っ赤な顔をして「あの……、体重……、ちょっと、減りました……」と報告してくれる。
その表情と囁き声には思うところはあるけれど、ぎゅうう~~~~~っと拳を握って、「よかったですね!」と言うようにしていた。
ただ、不安もある。
カロリーオフ料理はそれなりにおいしいのだが、やはり普段の料理とは違う。
満足感に関しても見劣りはするし、腹持ちが悪いものもある。
それで彩花のストレスが溜まらないかどうかが、心配だった。
「………………」
そんなことを考えていた、ある日の深夜。
そろそろ寝ようかな、と考えていたところで、彩花の部屋の扉が開いたらしい。
開閉音が耳に届く。
「……?」
しかし、普段と様子が違う。
いつもならすぐにペタペタと足音が聞こえてくるのに、今日はやけにおっかなびっくりというか、どこか躊躇いがちなのだ。
足音で様子の違いがわかってしまう、というのは我ながら気持ち悪いが、さすがに聞いている回数が違う。
それくらいは許してほしい。
きっと彩花のほうだって、逆の立場なら「おや?」と思うはずだ。多分。
「まぁそろそろかな、と思っていたけど……」
理久は部屋から出て、足音を立てずに階段を降りていく。
キッチンから光が漏れているのが見えた。
既視感を覚えながら、リビングの扉を開ける。
「彩花さーん」
声を掛けると、彩花がビクゥッ! として振り返った。
食パンを握っていたあのときと、姿が重なる。
しかし、その手に食べ物の類はない。
ただ、コップが握られていた。そこから湯気が立ち上っている。
彼女は驚いていたようだが、しどろもどろで口を開いた。
「兄さん……、あの、これは、違うんです。別に夜食を探していた、とかじゃなくて……。ただ、お腹が空いて眠れないので、白湯でも飲めば落ち着くかなと……」
どうやら、その手にあるのは白湯だったようだ。
いくら何でも、彩花が夜食を食べているとは思っていない。
理久が関わっているだけに、その気持ちを台無しにするような子ではない。
それだけに、本人の締め付けも厳しくなるんじゃ、と心配になっていたのだ。
「彩花さん。お腹が空いて眠れないなら、これでも食べましょう」
そう言いながら、理久はカップ麺がたくさん入った箱を取り出す。
彩花にもおなじみのものだ。
それだけに、彩花は困惑した声を出した。
「え、でも……。そんなもの、食べるわけには……」
もちろん、カップ麺なんて食べるわけにはいかない。
「これこれ。これなら食べても大丈夫だよ。スープ春雨。だって、たったの70キロカロリーですよ。食べるにしても、これくらいならいいはずです。お腹が空くのを我慢するくらいなら、ちょっとだけ許しちゃいましょう。彩花さん、普段頑張ってるし」
「………………」
彩花が気を遣うと思うので、理久は自分の分も取り出し、お湯を入れる。
そして、テーブルに二つ分並べた。
理久が座ると、彩花もおずおずと腰を下ろす。
いただきます、と手を合わせて、それを啜った。
「ん……。あ、結構おいしい」
春雨なんてどうなんだろう、と思ったが、それなりにおいしい。
温かいスープのおかげで満足感もある。
このカロリーで真夜中の空腹を紛らわせるのなら、十分じゃないだろうか。
まぁさすがに、毎日食べるのはどうかと思うけど。
彩花はおそるおそる手を伸ばし、ゆっくりと啜る。
そして、その目が驚きで見開いた。
スープを一口飲んでから、ほう、と息を吐く。
「おいしい……」
「よかった」
その呟きに、理久も笑みをこぼす。
すると、そんな理久をそっと見て、彩花は視線を落とした。
その瞳が、大きく揺れている。
なぜだか、彼女が泣き出しそうな気がしてしまった。
彩花はスープ春雨の中に箸を入れながら、そっと、本当に小さな声でそっと尋ねてくる。
「兄さんは……、なんでそんなに、よくしてくれるんですか……」
その問いかけは、理久の心臓を強く揺さぶる。
なぜって、それは。
好きだからに決まっている。
彩花が好きだから、少しでも彼女のためになりたくて、普段やらないことでも進んでやってしまう。
ただそれだけだ。
けれど、そんな質問をぶつけられるとは、とても思っていなかった。
「………………」
でもその理由は、なんとなく思い当たる。
思えば、彼女はこの件に関して、ずっと理久の親切に困惑している様子だった。
今までのことを考えれば、そうなるのも仕方ないかもしれない。
理久は今まで、彩花に対してできるかぎり力になろうとしていた。
けれど、そのどれもが彩花自身の問題ではあるものの、彩花のせいで発生したものではない。
例外は文化祭くらいだろうか。
あれにしても、元はと言えば母親に仕事が入ったせいでもあるし、あのとき彩花はきちんと「お願い」として、理久に申請している。
今回、彼女が「太ってしまった」「痩せたくて努力している」、というのは、徹頭徹尾、彩花自身の問題でしかない。
にも関わらず、理久は進んで手を貸していた。
だからこそ、彩花から、「なぜそんなによくしてくれるのか」という質問が出たのだろう。
そして、これは。
間違えられない質問とも言えた。
理久の答えが決まっているだけに。
ここで下手なことを言えば、彼女の中で疑惑が生まれるかもしれない。
「小山内理久は、三枝彩花を恋愛対象として見ているのかもしれない」という疑惑だ。
それは避けなければならない。
「――家族でしょう、俺たちは。家族の力になるのに、理由なんてありませんよ」
ともすれば乱暴とも言える、「家族だから」という言葉。
理久自身が苦しんでいるその言葉を、己の保身のために使った。
けれど、これ以上ないほどシンプルで、シンプルだからこそ説得力のある言葉だと思う。
彩花は理久の答えを聞いたあと、ぱちぱちと目を瞬かせた。
躊躇いがちに微笑んだあと、「ありがとうございます、兄さん」と改めてお礼を口にする。
そのお礼だけで、理久にとっては十分だった。
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