第31話

 そんなことがあった、翌日。


 理久は昼近くまで眠り込んでいた。



 彩花に対して他人のラインを踏み越えたことを告げ、気持ちを伝え、随分と偉そうに説教のようなことをしてしまった、その翌日だ。


 しかも、めちゃくちゃ泣いてしまった。


 それはきっと、彼女のためになれたと思うけれど、羞恥心は別問題。


 昨夜は部屋に戻ってからベッドの上で身悶え、考え事ばかりしてしまい、なかなか寝付けなかった。


 そして、正午近くまで眠ってしまった。



「……部屋から出るのが怖い」


 


 彩花と顔を合わせるのが怖い。


 何が一番怖いって、彼女に全く響かなかった場合だ。


 何の変化もなく、「おはようございます」と挨拶され、ちょこっとだけのご飯を食べ、いそいそと家事をこなす彼女を見たら、多分心がバラバラになってしまう。


 


 そうは思うものの、覚悟して部屋を出なければならない。


 えいや、と扉を開けて、階段を下りていく。


 すると、リビングに彩花はいた。


 彼女はソファに座り、テレビを観ていたらしい。


 彩花は理久に気付くと、振り返って控えめな笑顔を向けた。



「――おはようございます」



 その挨拶自体は、今までとさほど変わりはない。


 けれど、劇的に変わっていたことがあった。


 彼女が、パジャマのままリビングにいたことだ。


 夏用らしく、涼しげで薄い生地の半袖とハーフパンツ。


 彼女の細くて白い脚が見えていて、その眩しさに目を細めそうになる。


 彩花の長い髪がパジャマの上を滑り、彩りを与えていた。



 昨夜も見た姿とはいえ、与えた印象は全く違う。


 心臓が早くなってしまう。


 女の子のパジャマ姿なんて、こんなまじまじと見ていいわけがないのに。



 あまりの可愛さに視線が吸い寄せられたのは否定できないが、それ以上の意味がこのパジャマ姿には込められていた。


 だからこそ、理久は固まってしまっている。


 彩花は理久から視線を外し、頬を赤く染めた。



「や、やっぱりまだちょっと恥ずかしいですね……。でも、わたし。お休みの日は、わざわざ着替えないことも多くて……」



 そう。


 彼女は今まで、室内でも常に外に出られるような服装をしていた。


 彩花にとって、家の中は外同然だったからだ。


 赤の他人を前にして、部屋着姿で出ることはまぁないだろう。


 女子だったらなおさらだ。


 すなわち、これは覚悟の証明。


 今からは、ただの他人というわけではなく。


 家族のような振る舞いをしていきますよ、という宣言である。



「慎二さんとお母さんにもびっくりされました。すぐに嬉しそうな顔をしていましたけど……。それで、話したんです。実は前々から、『わざわざ朝の用意なんてしなくていいよ』と言われていて……。だから明日からは、ちょっぴりお寝坊しちゃいます」



 ふふ、と恥ずかしそうに笑う彩花。


 それを見て、理久はつい視界が滲んでしまう。


 今度は、彼女のほうが驚く番だった。



「お、小山内さん……っ?」


「ご、ごめん……。いや、良かったな、と思って……」



 にしても、泣くか普通。


 彩花の前で泣きすぎだ。涙腺がバカになっているのかもしれない。


 けれど、幸いながら彼女は引いてはいないようだった。


 ふっと静かに笑みを浮かべ、ぺこりと頭を下げる。



「小山内さんが『家族になったんだから、甘えてくれ』と言ってくれたおかげです。ありがとうございます」


「……いえ、あの。はい。そんな、どういたしまして……」



 こうもまっすぐに言われてしまうと、こちらのほうがどぎまぎしてしまう。


 なんだその文言。


 中学生女子に言って大丈夫なやつ?


 なにかの罪に当たったりしないだろうか、と勝手に不安になっていると、彩花は小さく「あっ」と声を上げた。


 どうしたの? と問いかけると、彼女はゆっくりと頷いたあと、こちらに顔を向けた。



 間近で見ると、本当に彼女は綺麗な顔をしていると思う。


 歩くたび流れるように揺れる美しい髪も、長いまつ毛も、華奢で細い身体も。


 そのどれもが、理久の心をそわそわさせる。


 あのとき、手を差し出してくれた女の子のままだ。



 そんな彼女が。


 控えめながらも、やわらかく――、本当にやわらかく笑顔を浮かべるものだから――、理久の心はより掴まれてしまった。


 まっすぐに笑顔を向けながら、彼女は震えるほどに嬉しいことを言ってくれた。



「これからもどうぞ、よろしくお願いします――、兄さん」



 小さく呼んだ、その敬称。


 ぎこちない他人同士の関係の中で、小さくて大きな一歩。


 リビングでパジャマ姿のまま、そう呼んでくれた一言は、どんな言葉よりも大きな意味を持っていた。



「は、はい。よろしく、お願いします……」



 しかし、それを問題なく受け止められるかは別問題。


 先ほどの笑顔と相まって、すっかり理久のキャパシティをオーバーしている。


 気の利いた言葉ひとつ言えない。


 可愛すぎるんですよね、彩花さん。


 その心の綺麗さに浄化されそうになっていると、彩花は視線を宙に彷徨わせていた。


 遠慮がちに行ったり来たりさせながら、無意識なのか指を絡めている。



「それで、あの、兄さん……。実は、早速で申し訳ないんですが、ひとつ甘えたいことがありまして……」


「え。そうなの。何でも言ってください」



 なんという進歩。


 今まで遠慮の塊だった彩花がそう言ってくれる。


 勢い込んで問い返してはみたものの、彼女はしばらくもじもじと指をいじっていた。


 言い辛そうに目を泳がせながら、頬を赤く染めている。


 それでも辛抱強く待っていると、意を決したように彼女は己の気持ちを吐露した。

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